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英文標準問題精講

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英文標準問題精講」  四国新聞2014年8月3日付 

 旺文社の参考書といえば、「赤尾の豆単」こと「英語基本単語熟語集」がまず思い浮かぶ。だが同社を語るとき、「英文標準問題精講」は、忘れてはならない一冊だ。

 「この2冊が生まれなければ現在の旺文社はなかった」。OBで元第一書籍出版部ゼネラルマネージャーの大磯巌さん(1970年入社)はこう断言する。

 「原の英標」の愛称で親しまれる「英文標準問題精講」は33年に刊行。総発行部数約1,000万部は、「豆単」の約1,800万部に次ぐ数字である。

 著者の原仙作さん(故)は31年に長崎高等商業学校(現長崎大)を、赤尾好夫さんも同年、東京外国語学校(現東京外大)を卒業した。まだ20代前半の若者だった2人の出会いがおもしろい。

 卒業後間もなく旺文社を創業した赤尾さんはまだ資金力に乏しく、金のかからない通信添削から始めた。ある時、英語の解答者の中に、並外れた成績を取る受講生がいた。それが原さんだった。

 英語に自信のあった原さんは腕試しのつもりで受講したという。驚いた赤尾さんは早速、原さんを九州から呼び寄せ、参考書の執筆を依頼した。「英標」の刊行はそのわずか2年後のことだ。

 まず、長文の例示があり、重要構文、熟語、語句の解説と続く。このような構成は当時としては新しく、英国の哲学者ラッセルやアイルランドの作家ジョイスら、原さんが選ぶ格調の高い例文も徐々に評判になっていった。第1書籍出版部高校語学グループマネージャーの黒田聡さんは「例文が古びないので、現在は教養書として愛読する人も多い」と話す。

 出版人として成功を収めた赤尾さんは後年、創業当初に心がけた点として、ギャンブルはせず「口コミによって売れるようなロングセラーを出すこと」(「私の履歴書」)と語っている。「原の英標」は、「豆単」と並び、狙い通りの一冊となったのである。

2014年08月25日


             要約のすすめ(その2)

――『英標』を要約すると「英文を書く力」と「日本語を書く力」がつく――

●「こだわり」が見えてくる

 『英標』の文章は評論文が多いので、漢字の使用量が多そうに思う。しかし実際は意外と少ない。漢字が多い文章は、全体が黒っぽくなる。内容が難解で、そのうえ漢字が多くて見た目が黒っぽいと、よけいに読みにくい。著者は訳出するときに、意図的に漢字を減らしているように思われる。

 たとえば、「座る」→「すわる」
      「一瞥」→「一べつ」
      「我々」→「われわれ」    

 
 誰かにとってどうでもいいことでも、誰かにとってはどうでもよくないものがある。要約文を書いていて、こんな微細な箇所が目にとまった。世の中の大多数の人にとってはどうでもいいことである。

 『英標』(例題96)で、coiled lines ということばが出てくる。文脈からcoiled lines はcoiled fishing linesであることは容易にわかる。fishing linesは辞書的には「つり糸」である。fishing linesは、通常の訳語としては「つり糸」でしかありえない。しかし『英標』では「釣綱」と訳されている。なぜ「つり糸」ではなく、「釣綱」といういわば造語のような訳語が当てられているのか。

 話の筋はこうである。「少年は浜辺に行き、老人を手伝い、coiled linesを運んでやるのであった」とある。

 coiled lines (coiled fishing lines)を、「巻かれたつり糸」と訳したのでは、つじつまが合わなくなる。なぜなら「つり糸」からくるイメージは、片手でつまんで運べる大きさや量でしかないからだ。少年がわざわざ運ぶのを手伝うほどの物ではないのだ。

 この箇所は、新潮文庫『老人と海』(福田恆存訳)では、「巻綱」と訳されている。「釣綱」も「巻綱」もともにプロの訳出のすごさを感じる。こうした精緻な訳出は、ことばに対する並々ならぬ誠実さからくるのだろう。

 『老人と海』を書いたヘミングウェイに、次の文章がある。氷山理論(Iceberg Theory)とか省略理論(Theory of Omission)と呼ばれている一節である。(『英標』練習問題【17】)

 The dignity of movement of an iceberg is due to only one-eighth of it being above water. 
 「氷山の動きに威厳があるのは、その8分の1しか表面に出ていないからである」

                  
 『英標』が半世紀以上にわたって、英文読解のいわば金字塔として読み継がれているのは、こうした一読しただけでは気づかない隠れた威厳のようなものを行間から醸し出しているからかもしれない。

●要約文の長さ

 『英標』を要約する場合、何字に要約したらいいかと質問されたことがある。入試問題では、日本語なら100字、英文なら100語でまとめよという指示があるが、自分で要約する場合は、何字にまとめるかは個人の自由である。要は、読んだ文章の内容が、自分の頭にすんなりと入る長さであり、自分の言葉で言える長さである。

 要約文は自己紹介と同じだと考えればいい。自己紹介は、「自分」についての要約である。3秒の自己紹介もあれば、30秒や、3分のこともある。3秒の自己紹介なら名前だけになるだろうし、30秒なら名前と趣味になるかもしれない。3分の自己紹介なら、将来の夢まで語るかもしれない。要約文も、10字ならこう、50字ならこう、100字ならこうと、ケース・バイ・ケースである。新聞記事の「見出し」をイメージしてもいい。まず「大見出し」があり、「中見出し」「小見出し」と続き「本文」がある。

 「要約」ができるということは、その反対の「詳述」もできるということである。要約では、修飾語を削ったり、比喩やたとえの部分を省いたりする。しかし逆に、修飾語や比喩を用いた方がいい場合がある。その方が相手に伝わりやすく、わかりやすくなるからである。

 そんなとき、「削る経験」は、「つけ足す経験」に活かすことができる。「拡大から収縮」と「収縮から拡大」は、逆方向の行為だから、双方向の作業が自在にできるようになる。100字を10字に減らすことができれば、10字を100字にふくらますこともできるようになる。要約の練習によって、書くという行為の可動域が拡がり、表現形式に幅ができる。

 要約力はプレゼンテーションにも当てはまる。自分で「自分」を要約するのと同じように、自分が熟知している内容を相手に伝えるのも要約力である。相手がその分野の素人なら、ひとことでかいつまんで説明した方がわかりやすいし、相手が専門家なら、そのレベルに応じて詳述した方が中身が濃くなり説得力がうまれる。

●教室の空気はまるで違う

 教室で生徒たちが『英標』の要約にチャレンジしている姿を見ていて肌で感じたことがある。要約文を書いているときと、マーク・シートに解答しているときとでは、教室の空気がまるで違うのだ。前者はピーンと張りつめているのに対して、後者はドロンとよどんでいる。明らかに生徒の集中の度合いが違う。もし脳波を調べる装置があれば、脳が活発に活動しているのがきっとわかるだろう。

 センター試験のようなマーク・シートでは、与えられた選択肢から答えを選べばいいのだから気楽なものだ。雰囲気やフィーリングで解答できるのがマーク・シートである。しかし、要約文は頭を絞らなければ1行たりとも書けない。ことばに対して真剣に向き合わなければばらない。「ああでもない、こうでもない」「ああ書こうか、こう書こうか」と頭はフル回転する。著者の思考の中心がどこにあるかをさぐりながら、単語と単語をどう組み合わせるか、文ど文をどうつなぐかを考えなければ要約文は書けない。要約は、いわば知的な格闘である。

 要約文を書くには、英文と和文を照らし合わせなければならない。そのため頭と眼は、英文と和文のあいだを何度も往き来する。速く読むこともあれば、ゆっくり一文字ずつ追うこともある。速読と遅読のくり返しだ。英文と和文の両言語で、ラピッド・リーディングとスロー・リーディングを織り交ぜるわけだから、たいへんな脳トレである。文章全体を見渡しながら細部にも気を配る。意識は、緊張感と集中力を伴って、マクロとミクロのあいだをたえず往復する。

●無意識に要約するようになる

 『英標』で要約の訓練を積んでいくと、「読む」という行為の質が変わる。ものを読むということは、映像として文字を見ることではないし、読んだ本の読書リストをつくることでもない。内容を理解し納得しコンパクトに頭に収めることである。

 「要約するんだ」という目的意識をもって読んでいると、どんな文章を読んでも要約したくなるし、無意識に要約していることに気づく。新聞を読んでも本を読んでも、頭のどこかで、「要するに……」とまとめるようになる。これこそがものを読んだことの証である。

 2013年05月07日


             要約のすすめ(その1)

――『英標』を要約すると「英文を読む力」と「日本語を書く力」がつく――

●「理解力」は「要約力」である

 文章が書けない学生が増えている。国公立大の2次試験は、「日本語で説明せよ」「下線部を訳せ」「内容を要約せよ」といった記述問題が中心である。大学入試といえばセンター試験が主流になり、国公立大を受験しないのなら、文章が書けなくても困ることはない。センター試験はマークシート方式だから、与えられた選択肢から記号を選べばいい。文章など書けなくても、スピードと直感力があれば、センター試験は得点できる。

 学習の中心がセンター試験にシフトすると、実際に手を使って紙に書く機会は減るばかりである。書く機会がないと、書く能力は育たない。書く能力は理解力と結びついているから、書く能力が劣ると、理解力も劣る。

 こんな学生がいる。授業をきちんと聴いている。受講態度にも問題はない。ノートも几帳面に取っている。だが理解度が低い。なぜだろう。彼女のノートを見ると、的はずれな記述があったり、板書とは違うことが書かれていたりする。理解すべきポイントがズレているのだ。この理解力は要約力と関係している。

 1時間の授業を聴いたら、だれでも要約して頭に入れている。電機製品の使い方を1時間聞いてもやはり要約して頭に入れている。この要約の仕方がヘタだと、授業内容や電機製品の使い方を、人に伝えようにも伝えられない。あの人の話は、何の話なのか要領を得ないということになる。1時間の話は、1時間かけてインプットするわけでもないし、1時間かけてリプレイするわけでもない。省略し、要約して頭に入れているのである。

●「表現力」は「要約文」で磨く

 『蛍雪時代』(1994年)のなかに、『長文読解は要約力がキメ手』と題する記事がある。その論旨はこうである。

 『小論文の入試では、自分の考えを論理的に文章化できるかどうかが問われている。長文の内容が把握できなくては、その内容に対する意見など述べることはできない。読解力をつけるには、要約の練習がいい。要約することを目的に読み、限られた字数で筆者の主張をまとめていく。こうした「読み」と「要約」をくり返すことで「読みの力」がつく』

 記事では、朝日新聞の『天声人語』の要約を勧めている。『天声人語』はおおむね800字で書かれている。これを200字、100字、50字、20字と要約していくことで、「読解力」「要約力」「表現力」を身につけよと提唱している。

 「自由」について書け、「平和」について書けといわれてもおいそれとは書けない。だれしも真っ白な空白の紙を前にして、書きたくても書けないのだ。日記なら書けるかというと、そうでもない。日記は他人に見せるものではないので、書くのに緊張感がない。緊張感がないと、書いても充実感が伴わない。それに毎日センセーショナルなことが起こるわけではないので、日記はすぐにネタ切れになる。

 しかし「要約文」なら、元になる文章があるわけだから、とにかく書き始めることはできる。「要約文」だから、無から有を生み出すわけではない。目の前にある元の文章を削っていけばいいのだ。何もないところから書き始めるプレッシャーに比べれば、「書く」という行為の負担は軽い。「要約」は他人が書いた文章を加工するのだから、ただ書けといわれて書くよりもずっと書きやすい。

●『英標』の要約

 『英標』には、「伝記」「自伝」「小説」「哲学」「自己啓発」「会話文」「評論文」とさまざまな文章が取り上げられている。全部で220題載っているから、要約の材料にはこと欠かない。その中でいちばんの量を占めるのは「評論文」である。「評論文」だから、語彙は生硬で難しいものが多い。

 自分では普段使わない言葉や言い回しが多いから、ボキャブラリーや表現力が身につく。「卓越した」「報酬として」「空虚な」はそのまま使うよりも、それぞれ「すぐれた」「見返りとして」「ぼんやりとした」と、日常使っている普通の言葉に置きかえた方が読みやすくなる。しかし言葉を置きかえると全体の流れやリズムが変わるから、表現形態も変えなければならなくなる。このことが書くトレーニングになる。

 試験などで、「要約せよ」とか「大意を述べよ」といわれると身構えてしまうが、友だちに話すようなつもりで書くと、リラックスできて書きやすくなる。「手短に言えば」「かいつまんで言うと」「要するに言っていることは」と考えれば、肩の力が抜けて書きやすくなる。

●英文と訳文の併記

 かつうら英語塾の『英標』のテキストには、英文と訳文が併せて載せてある。『英標』の英文は難解な構造のものが多く、訳文なしでは内容をつかみきれない。英文が難しいのだから、訳文はチラッと見るのではなくじっくり見て欲しい。しかし学生は訳文があっても見ようとしないし、読もうとしない。

 訳文をよく読めば、こういう訳文だから、こういう構造の英文だろうと逆算して推理することができる。訳文と英文を照らし合わせることで、どの訳文とどの英文とが対応しているのかが見えてくる。

 一例を挙げておこう。(『英標』練習問題【22】改訂)

 X seemed to have been recently brought in, for an observer, had there been one,would have seen Y.

 Xは最近になってもち込まれたらしかった。というのは、もしだれかが居合わせていたならY が目についていたはずだからである。
 

 たとえばfor an observerで、forを前置詞と解釈して、「観察者にとって」と訳したのでは、would have seenの主語がなくなり、つじつまが合わなくなる。訳文の「というのは~だからである」から、forは前置詞ではなく接続詞であるとわかる。

 また、had there been oneもつまずきやすい箇所だ。しかし訳文をよく読めば、「もしだれかが居合わせていたなら」に対応しているのが見えてくる。had there been oneは、if there had been oneで、if省略による倒置であることがわかる。

●内容がわかっていれば英文の構造分析に集中できる

 『英標』の要約文を実際に書いてみると、こんなことに気づくはずだ。ただ漫然と訳文を読むだけでは内容は頭に入らない。要約文を書くには、訳文を何度も読まなければならない。ぼーっと読んでいては要約文は書けない。大体こんな意味だろうと頭のなかで想像するのと、実際に手で紙に要約文を書くのとでは意味が違う。

 実際に手を使って紙に書くには、集中力と緊張感を持って訳文をくり返し読まなければならない。紙に書いたものは残るからごまかしが利かない。何度も読んだ結果、訳文の内容を熟知することになる。そうすると英文を解釈するときに、何が書いてあるのかがわかって英文を読むことになるから、英文構造の分析だけに集中できる。

 普通の読み方は、英文の構造を解明しながら、内容を理解していくというプロセスだが、これは骨が折れる。「構造分析」と「内容把握」という二つの作業を同時に行うからだ。そこでもし英文の内容が事前に十分にわかっていれば、英文の構造分析だけに専念すればいいことになる。そうすると英文を読むのにゆとりがうまれる。『英標』では一筋縄では読めない文が並んでいるから、こうしたゆとりがなければ精読はできない。

●あとから要約するとすっきりする

 『英標』で一つひとつの文にこだわって精読していると、部分にとらわれて全体を見失ってしまうことがある。一本いっぽんの木ばかりを見ていて、森を見失うのだ。一文を丹念に読み解くことに没頭するあまり、ふと何の話で、どんな内容の文章かを忘れてしまうことがある。

 こんなとき精読したあとで要約文を書くといい。苦労して読んできたけれど、結局いっているのはこれだけのことか、英文そのものは難しいのに中身はこんなにスカスカだったのかと、拍子抜けすることもある。また、崇高な哲学的な内容の場合、要約しきれないこともあるし、日本語で読んでもわからないことがある。むしろ英文そのもので理解した方がわかりやすいと気づくこともある。

 「要約文」は、さきに書いてもあとから書いても、いずれにしろ大きなメリットがある。紙とエンピツでもって実際に書いてみることで実感できるだろう。

 2013年03月29日

英文標準問題精講


  私と英標

 手元にボロボロになった「英標」がある。英文標準問題精講、通称「英標」と呼ばれている大学受験のための参考書だ。
 

 1993年に旺文社から出版され、以来今日まで、半世紀以上にわたって売れ続けてきた。いわば受験界の古典だ。どんな書店でも、受験参考書のコーナーには必ず置いてある。英米文学の著名な作家の代表作が、百語から二百語の抜粋で、二百二十編収められている。英文解釈の究極の書として、先輩から後輩に、教師から生徒に、親から子へと薦められてきた本である。

 だからといって、必ずしも読者に愛され親しまれてきた本ではない。受験生は、むしろ、巨大な岩山に行く手を阻まれたような挫折感と絶望感を味わってきたに違いない。とにかく難解な本だ。

 英文自体も難解だが、訳文の方も難しい。「外国文学の園を逍遙することは……」「摩擦が普遍的に存在している状態こそが平和の……」「想像の灯火を意のままに点滅させ……」といった翻訳調の表現が並ぶ。さらにやっかいなのは解説の箇所だ。複雑な構造を持つ英文については、系統樹のようなツリー状の英文の解剖図が示されているが、数式を見ているようでよけいに分かりづらい。

 こんな「英標」との付き合いは、受験生に英語を教えはじめて以来、二十年近くになる。教えるという立場上、微に入り細をうがって何度も精読を重ねてきた。

 赤や青のボールペンや、オレンジ色や黄色のマーカーでいたるところに矢印や下線が引いてある。ページの余白には、鉛筆書きの細かい文字で英文や和文が、ところ狭しとびっしりと書き込んである。無味乾燥な活字の羅列にしか見えなかった本に、丹念に精気を吹き込んできた痕跡である。「英標」との知的格闘の証でもある。

 気になったページには付箋紙が貼ってある。また、いちいちページをめくるのに不便だったので、自家製のしおりも作った。長さ十数センチのタコ糸の一端を接着剤で背表紙に貼り付けて、ページの間に挟んである。破れてちぎれそうになったオモテ表紙とウラ表紙は、接着剤で塗り固めさらに粘着テープで裏打ちして、本は、なんとか分解を免れている。

 二、三年前から、「英標」の音読を始めた。ただひたすら声に出して読むことを繰り返している。英文が理解できるようになろうとか、英語がうまくなろうという気持ちから始めたのではない。それよりも、精読をとおして隅から隅まで熟知した英文を、声に出して一気に読み飛ばしてみたらどんな感じだろうかという好奇心からだ。

 爽快である。歳月をかけて行きつ戻りつ読んできた英文が、秒単位で一直線に進んでいく。読経のように淡々と自分の口から流れ出る英文に、ボーっと酔いしれることもある。現在、「正」という字が六個並んでいる。三十一回目の音読にさしかかっているところだ。

 1999年11月・四国新聞随筆欄投稿  


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