究極のスロー・リーディング
●縮約練習法
『真似から始める文章教室・縮約練習法』(福川一夫著)という本を読んだ。図書館で借りた後、手元に置いておきたくなり自分でも購入した。文章が上手くなりたい人へのアドバイスが実践的だ。社説を5本、エッセイを5本、計10本の縮約を真剣に実践すればいい文章が書けるようになるという。具体的に数字が挙がっているから実践してみようという気になる。
文章に対する著者の思い入れは、こんな言葉からも伝わってくる。「ぼくの好きなエッセイを3つあげろと言われると、文句なしに『風景開眼』(東山魁夷)と『銀杏』(円地文子)と、『リオの謝肉祭』(三島由紀夫)をあげる。いちばんはやっぱり『風景開眼』。もう百回以上は読んでいるが飽きがこない。<私は生かされている>というくだりはもうそらんじている」「松永伍一の『七夕まつり』は、ぼくの好きなエッセイとして3本の指に入る名文だと思っています。初恋小説として何度も鑑賞しています」
著者の福川氏は、「週刊サンケイ」の編集長を経て、NHKや専門学校で30年におよぶ文章指導歴がある。企業の寿命は30年という説があるくらいだから、30年続けているということは、間違いなくプロである。「縮約法」を指導に採り入れ、どんな下手な文章を書いていた受講生でも飛躍的に文章が上手くなったという。「縮約法」は、書き方の練習法として大野晋氏が『日本語練習帳』(岩波新書)のなかで提唱している。
●むやみに縮約するとスカスカな文章になる
福川氏は、社説の縮約率は4分の1、エッセイの縮約率は5分の4が適当だという。社説は、主張という核を取り出しさえすれば、縮約率4分の1は無理なく達成できるが、エッセイを4分の1に縮約してしまうと、面白さや味わいをそぎ落としてしまい存在価値のない文章になるという。
著者のこの分析はよく理解できる。『英標』の全編220題を、すべて一律に3分の1に縮約してみて、小説の類の縮約は、実際しっくりこなかった。小説やエッセイを3分の1に縮約してしまうと、福川氏がいうとおり、味もそっけもないあらすじだけの文章になってしまう。
●名文が名文なのは
言葉には、意味情報を伝えるほかに、こんな側面もある。「面識のない二人のイギリス人が列車の客室で顔を合わせると、かれらは天気の話をする。会話が全く行われなければその場の雰囲気は気づまりなものになる。しかし、天候のような当たりさわりのない話題で、相手との関係をつくり出すことができる。言語は、他人との関係をつくり出す手段でもある」(『英標』例題108を10%に縮約)
人は、コミュニケーションによって、表情や顔色や視線や身振りなど、言葉以外のものも伝えている。いわゆる非言語コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)である。それは話し言葉に限らず、書き言葉であっても同じである。文字が汚かったり丁寧だったりするだけで印象が違う。ハガキなどで、文字以外の余白の配分が適切だと、文面とは別に文章全体が美しく見えたりする。
名文が名文なのは、豊かな語彙だったり、巧みな表現技術だけではない。斬新な構想であったり、深い洞察力であったり、こまやかな描写であったりする。表記法が「いちょう」「イチョウ」「銀杏」、あるいは「およめさん」「オヨメさん」「お嫁さん」と変わるだけで、印象は違ったものになる。読点の打ち方からは著者の息づかいが伝わってくる。『風景開眼』の書き出しはこうなっている。「いままで、なんと多くの旅をして来たことだろう。そして、これからも、ずっと続けることだろう」
●脳の記憶装置にインプット
このように考えると名文をまるごと筆写することの意味が見えてくる。福川氏は、名文を手書きで原稿用紙に書き写すことをくり返し勧めている。
・「文章で名を成した人はこの筆写という作業を幼い頃からやっていた。書き写した文章が物を書く上で血となり肉となっていることは、著名な作家が口を揃えて述懐している。真似すること、それが最高の極意である」
・「パソコンの普及がめざましく、ワープロ書きをする人は多くなりました。しかし、文章をもっと上手になりたいと願う人は、手書きにこだわってください」
・「まずは全文原稿用紙に手書きで書き取ってください。ワープロで写し取るとどうしても、急いでしまって、文章や作品を鑑賞することがおろそかになってしまいます。筆写という手作業の良さは、考えながら、味わいながら、作業が進み、脳の記憶装置にどんどん優れた文章がインプットされます」
●実際に書き写してみると
福川氏が絶賛する東山魁夷の『風景開眼』は、たしかに書き写してみたくなる文章である。実際に書き写してみた。原稿用紙にすると約10枚になる。ワープロだと30分ぐらいで打ってしまうが、書き写すと3時間はかかったように思う。いやそれ以上かもしれない。しばしば中断して気になる言葉を調べていたから実際に要した時間はよくわからない。
「躑躅」や「薊」には、それぞれ(つつじ)(あざみ)とふりがなが振ってあるが、「郭公」にはふりがながない。調べてみてはじめて鳥の(かっこう)のことだとわかった。落葉松林(からまつ)についても、どんな林なのだろうと画像を調べたら、赤茶色の枯れた松林が写っていた。それで「落葉松」と書いて(からまつ)と読むのかと思ったら、そうではなかった。辞書には「高冷地に生える落葉高木」とあり、「枯れた松」を指しているわけではなかった。
円地文子の『銀杏』を書き写しているときは、イチョウの英語名はたしかginkgoだったのではと気になり辞書で確認してみた。「ginkgoは『銀杏』を読み間違えたときの発音がそのまま英語になった」とあった。どうりで覚えやすいわけである。
●筆写は究極のスロー・リーディング
本を読んでいて、読めない漢字があっても気にせずに読み進むのが普通だが、筆写では寄り道をしてしまう。目的は速く書くことではないし、たくさん量をこなすことでもない。味わうことである。読めもしない文字を書き写そうとは思わない。「意味」や「読み」が分からないと、いちいち調べたくなる。
「あらすじ」さえ分かればいいとばかりに、「とばし読み」や「ななめ読み」という読み方があるが、「とばし書き」や「ななめ書き」は存在しない。筆写は究極のスロー・リーディングである。どんなに時間がかっても気にならない。むしろ「ゆっくり」を楽しめるようになる。だれに見せるわけでもないのに、うっかり書き損じた文字は修正液で訂正する。一つひとつの文字にじっくり向き合っていると、そんな丁寧な気持ちになる。
筆記用具のボールペンもあれこれ試してみて、ペン先とグリップがいちばんフィットするものを使う。ちょっとした走り書きならどれでもいいが、きちんと書き綴るときは気に入ったもののほうがいい。筆記用具ひとつで書く楽しみが違ってくる。
原稿用紙に縦書きで書いていると、日本語が縦書きの言語であることがよくわかる。ひらがなの「し」や「す」を見ればわかるように、線は必ず上から下へと伸び、次に続く文字へとスムーズにつながるようにできている。縦書きの心地よさは手で書いてみてはじめてわかる。
筆写は手間ひまがかかるが、数時間かけて写し終えると、達成感があり満足感がある。写し終えた文章は、自分の原文でもないのに愛着がわく。「充実感」と「ゆっくり」は、どこかで結びついているのだろう。
後日、図書館に行き東山魁夷の画集を手に取ってみた。どこまでも透き通るような画風に、文章との違和感はなかった。
2014年10月13日