1時間の辛抱が一生のとくになるんだ?
●1日1コマ
こんなに流行っている店なのになんでもっと開けないんだろう? 近所にある人気のうどん店の営業は、11:30~14:00の2時間半。やはり近所にあるオムライスの専門店は、11:00~15:00の4時間。一方、コンビニや牛丼店のように24時間オープンの店もある。
当塾の授業は、19:55~21:55の2時間。開始と終了の時刻が中途半端なのは、電車のダイヤに合わたため。開塾以来この時間枠で教えている。1日1コマだから時間割はいたってシンプル。春・夏・冬の特別講習は行わない。入試直前対策も行わない。したがって1年を通して同じタイム・スケジュール。
「もっと早い時間帯から教えては?」「もう1コマ増やしたら?」と言われることがあるが、この時間枠を変えたことはないし、これからも変わらない。原点は予備校時代の体験にある。
●100分×4コマ ≒7時間
都内の予備校で英語を教え始めて3年目のこと。夏期講習で目いっぱいの授業を引き受けた。100分授業を1日4コマ、それを3週間続けた。午前9時に始まり、休憩や昼休みをはさみ、終わるのは午後6時。100分授業を4コマ行うと約7時間。普通のデスクワークとは大違いで、立ちっぱなし、しゃべりっぱなしの7時間になる。
100人規模の大教室では、後方の生徒の顔も表情もわからない。生徒に質問することもないし、生徒から質問されることもない。個々の生徒の理解度や能力などお構いなしにテキストを進める。講義は一方的なものになる。
1日に4コマの授業というのは、同じテキストを4度繰り返すことを意味する。文法の説明を要する箇所も、ヤマ場にさしかかる箇所も、ジョークを言う箇所もすべて同じ。4コマ目の授業ともなると、気力も体力も尽きて、自分で自分の授業にげんなりする。見た目にはわからなくても内面はボロボロで、魂の抜けたマシン状態になる。
しかし、もし4コマともテキストが異なると、授業の準備が大変になる。テキストに目を通し、授業の組み立てを考え、補足事項を調べていると、思いのほか時間がかかる。深夜まで翌日の準備に追われることになる。変化がなければ嫌気がさすし、変化があれば時間に追われる。
●The more, the better.
予備校講師はフリーランサーで自由。やればやっただけ稼げるが身分は安定しない。予備校側の都合でいつクビになっても文句は言えない。人気や実力にかげりが出れば他の講師に取って代わられる。弱肉強食の原理で常に競争にさらされている。
その結果、稼げるときに稼げるだけ稼いでおこうと考えるようになる。仕事に打ち込んでいるように見えても、職を失うのが不安だからがむしゃらに働いているだけ。
ルストイの短編小説に、『人にはどれほどの土地がいるか』がある。
主人公の農夫は、「日没までに歩いて回ったぶんだけ自分の土地になる」という契約に、欲をかいてひたすら歩き続ける。「シャツは、汗のためからだにへばりつき、口はかさかさに渇き、足は自分のものでないようにふらふらした」。それでも彼は歩き続ける。力をふり絞り無理やりに足を動かしながら彼はこう考える。《1時間の辛抱が一生のとくになるんだ》
土地さえ手に入れば幸福になれると考えた彼を待っていたものは……。結末は同書で。『イワンのばか』(岩波文庫)に収録。
●Uターン
人間の欲望には際限がない。体力の限りどんどんコマ数を増やす。心身共に壊れてしまうまで働く。教える喜びより預金残高に関心が向く。外からは満たされているように見えても、内面は疲労・イライラ・不満・競争・比較・嫉妬・怒りといったネガティブな感情が渦巻く。やがてそういう感情に支配されていることすら感じなくなる。
平凡でなくありきたりに見える仕事でも、思いっ切り濃縮すると矛盾が鮮明になる。1日20本タバコを吸う喫煙者が一度に200本吸うとイヤになるのに似ている。この3週間の夏期講習は、予備校講師として大教室で教えることの矛盾が凝縮され、働くことの意味、生きることの意味が問い返される体験だった。予備校を辞め、十数年住み慣れた東京を離れたのは、この体験の半年後のことだった。
●businessはbusyness
businessの語源は、busy + nessで、「忙しさ」である。「忙しい」は「心」が「亡」びると書く。「心」+「亡」は「忘」という字にもなる。時間に追われ忙しくしていると、文字通り、「心」が「亡」び、自分が、何のために、どこに向かっているのかを「忘」れてしまう。
If you do not know where you are going, every road will get you nowhere.
どこへ行こうとしているかがわからなければ、どの道を行こうとどこにもたどりつくことはできない。 ─ ヘンリー・キッシンジャー ─
「かつうら英語塾」は、これからもゆっくりと歩んでいくだろう。1コマだけだから準備にはたっぷり時間をかける。1コマだけだから丁寧な授業ができる。1コマだけだからエンジン全開で臨める。
(2011年1月13日) 2020年1月20日(改稿)