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只管朗読

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 只管朗読 (しかんろうどく)

1.只管朗読とは

  • 英文をただひたすら音読すること。(500 回~1000 回)

2.只管朗読の目的

  • 読む・書く・聞く・話すを含む総合的な英語力をたかめること。

3.只管朗読の利点

  • 教科書代だけでお金がかからない。
  • 時と場所を選ばずいつでもどこでもできる。
  • 反復音読するだけのもっとも簡単な方法。
  • 学歴・能力・年齢に関係なく誰でも出来る。

4.只管朗読の効果

  • 英語学習の盤石な基本が確立され、語感・英語らしさが体得される。
  • ハイレベルなオールラウンドの英語力を身につけることができる。
  • 英文を見て、聴いて、瞬時に理解できるようになる。
  • 筆を執ると自然に英文が流れ出てくるようになる。
  • 英語が自然に口をついて出てくるようになる。

5.只管朗読のための教材

  • 中学2・3年の教科書で充分。
  • 中学の教科書には日常に使う表現、構文、文法、語彙がすべて網羅されている。
  • 音読するには内容、構造、文法、単語がよく理解できていることが望ましい。
  • NHKの会話番組の会話表現の90%は中学のテキストでカバーされている。
  • 中、高、大の英語教師7万人中、正確に話せる人、書ける人は500人位。


6.只管朗読の実践

  • わずかな時間の活用が技術の習得を決定する。
  • 音読は無味乾燥なので一日のうち10分とか15分とか細切れの時間を利用する。
  • これと決めた教材を完璧な自信がつくまで、何百回でも声に出して読み続ける。

7.只管朗読と暗記

  • 暗記を目的とした音読でない方がよい。(覚えたのではないから忘れない)
  • 何回も音読した結果としての暗記が望ましい。
  • 覚えようとする意志を働かせた暗記では効果が薄い。

8.只管朗読と只管打座

  • 道元禅師の説いた只管打座は、悟ろうなどという気を起こさず座れということ。
  • 只管朗読は、憶えようなどというケチなことを考えずひたすら音読し続けること。

9.『英語の話し方』1970年刊 國弘正雄著 サイマル出版(絶版):以下全文抜粋


只管朗読のすすめ

 只管朗読ということばは、読者の方々にとってはおそらく耳なれないことばだと思いますが、読んで字のごとくで「ひたすら朗読する」という意味です。

 私がこの只管朗読ということばを思いついたのは、鎌倉期における曹洞宗の開祖、道元禅師が、「只管打坐」ということをいっていることからです。道元禅師の説いた「只管打坐」というのは「ひたすら坐りなさい」ということです。つまり道元禅においては、臨済禅などとはちがって、公案を一生懸命考えさせるようなことはあまりしません。

 公案というのは、たとえば隻手の声、つまり片方の手がどういう音を出すかとか、犬の子が果たして仏性を持っているかどうかといった一種の謎解きのようなものを与え、一生懸命考えさせることによって、われわれの非常に世間的な常識のようなものを打ち破り、新しい境界にとび込んでゆくのを助けることを目的としています。これは禅、あるいは悟りということに対する、いわばきわめて知的なアプローチだと思うのですが、それに反して道元禅師の説かれた「只管打坐」は、とにかく黙ってお坐りなさいということなのです。これが新しい境界に到達するための最短距離なのだと説かれたわけです。

 そこで私も道元禅師にならって、英語に上達しょうと志ざされる方には、黙って朗読しなさい、ひたすら朗読しなさいと申し上げたいと思います。実はこの朗読ということが、英語にとって一番効果的でしかもお金のかからない、いつどこでも自分自身が主体的に場所なり時間なりを決めて行なうことのできる、その意味では最も容易な方法であると思うのです。道元禅師は坐禅をさして安楽の法門といいましたが、私は朗続こそが安楽の英語上達への道であると主張したいのです。

中学生のリーダーで充分

 いささか私事にわたって恐縮ですが、私がかつて英語を習い始めた中学一年生の頃、恩師の本村武雄先生(今もご存命で、ある大学の先生をしておられます)が英語を習う一番よい方法は、中学の一年のリーダー、さらに二年三年のリーダーを声を出して、繰り返し繰り返し読むことである、といわれました。当時の私は非常に純真な生徒でしたから、木村先生のいわれることを実に愚直なまでに実行したのです。時あたかも戦争中で、今とちがってテレビもなければラジオ講座もない諸事不便な時代でしたが、幸い教科書だけはありました。そこで、これを声を出して繰り返し読んだものでした。おそらく一つのレッスンについて五百回ないしは千回も読んだだろうと思います。

 戦争が終わったのは中学三年のときで、当時私は神戸におりました。やがて米軍が進駐してきたのですが、子供心にも何とか自分の勉強してきた英語を使ってみよう、と思って進駐軍兵士に話しかけたところ、おどろくなかれ、こちらのいうことが相手に通じるだけでなく、相手のいうことも、中学三年生としては驚くほどよくわかったのです。

 この個人的な体験にもとづいて、私は声を出し、反復して読むことこそが、外国語を勉強するうえで、もっとも効果的な方法であると信じています。なおここで河上道生九州歯科大学教授が「英語教室」三十七号に書かれた文章を一部引用させていただきましょう。同教授は英語語法の研究家として著名であると同時に、ご自身もみごとな英語を操られる、いわは理論と実際の両面に通じた秀れた英語教育者です。私自身のことに言及しているのでいささか面映いのですが、只管朗読の効果を強調するために、あえて引用します。

 「この夏ある講習会で、テレビ英会話の講師であり、すぐれた通訳者でもある國弘正雄氏と一緒に数日を過ごす機会があった。同氏は講演のなかで氏自身の英語学習に言及し、中学時代の英語教科書を何千回も音読したと語り、中学のテキストをマスターすることが重要であり、ほんとうに中学の教科書を完全にものにしている日本人は、そう数多くはないだろうと述べられた。

 ……わたしは昨年、語学教育振興会が行なった大学生対象の集中訓練の指導教官会議の席で、氏のあいさつを聞いて深い感銘を受けていた。氏が相当期間米国に滞在していたことを考慮に入れても、なお氏の英語が抜群であることに変わりない。英語国に住んだ年数が多くても、英語が不正確な人のほうが多いからである。

 何はともあれ、國弘氏の英語には文法上の誤りがない。これは日本人の英語としては珍しいことである。このことは氏が中学時代の英語を徹底的に学んだことで説明されるとわたしは思う。氏は英語を暗唱すべきだとは強調されなかったが、それほどまで音読した氏がテキストを暗記されたことは疑う余地がない。

 わたしは機会あるごとに中学のテキストを暗記することが将来の基礎を作ることであることを強調している。文法も文型練習も有益な教授上の技術ではあるが、学習者が、すべての課ではないにしても、かなりの数の課を暗記するという仕上げの段階を抜いては、将来英語を書いたり、話したりするための十分な基礎は作れないというわたしの信念は、経験と、かなり多くの日本人の英語を観察したところに基づくものである」

六十歳でもマスターできる

 ところでこの本を読んで下さっている年長のみなさんのなかには、朗読などというのは中学生のやることで、いい大人のできることではないという反論をなさる方もあるかもしれません。

 そんなこと第一気恥ずかしくてできないし、若いときとちがって効果もあるまいといわれる向きもあるでしょう。気はずかしいとおっしゃる方には、この国際化時代に英語ができないのと、声を出して読むのとどちらがより恥ずかしいと思いますか、と申し上げましょう。

 そして中学生ではあるまいし、馬鹿にするなとお叱りの向きには、意地悪のようですが、こと英語の表現能力に関するかぎり、みなさんとアメリカの中学三年生と比べれば、どうも歩が悪い、いや日本の中学三年生と比較してもあまり大差がなさそうだ、という点をremindしてほしいと思います。

 他方、効果の有無を疑われるみなさんに対しては、かつて私がこの方法をある年配の先生にあてはめてみて、大きな成果をあげた実例を紹介することにしましょう。

 もう七年もむかしのことになりますが、元東大工学部長(名誉教授)で当時東洋大学の工学部長をしておられた大越諒先生から依頼を受け、英語の勉強のお手伝いをしたことがありました。

 東大をすでに退官されていたわけですから、お年は六十を越えていらっしゃいました。しかも大越先生は茨城県出身で、どちらかといえばことばの重い方だったわけです。学士院賞を受けられた機械工学の大家ですが、近くイギリスに学会があり、その学会で小委員長をつとめなければならないが、しかし英語を話したり聞いたりすることが下手なので不安でしようがない、なんとか國弘さん助けてくれないだろうか、ともちかけられたのでした。

 そこで私が大越先生に「先生、私のいうことは何でもお聞きになりますか」と申し上げました。すると先生は「何でも國弘さんのいうことは聞くから」と答えられたのです。それではと、私は大越先生の英語の勉強のお手伝いを一週間に一回ずつすることになりました。 私はとにかくどんなものでもいいから、レコードつきの中学二年生のリーダーを二冊買ってきてくださいと申し上げたところ、先生はさっそく神田に行かれ、ある中学二年生のリーダー二冊とそれに付随するレコードを買ってこられました。

 われわれの勉強がどのように進められたかというと、まず私が中学二年のリーダー、レッスン・ワンを声を出して一節ずつ読み、そのあと大越先生がつけて読み、そしてまた私が続けて読む、大越先生がつけて読む。毎週一回一時間半ぐらいの個人教授でしたが、その間私たちは徹頭徹尾、朗読に終始しました。

 ところで先生は車で大学へ通っておられ、往復三時間ぐらいの時間があるということでした。そこで私は、テープレコーダーにリーダーと外国人のレコードを吹き込み、それを毎朝毎晩学校の往復に先生がお聞きになれるようにしました。

 それ以外の勉強らしいことは何もしなかったわけですが、ある日先生が知人を見送りに羽田に行かれたのだそうです。するとそれまでは全然耳に入らなかった空港の英語によるアナウンスに初めて気づき、しかも何をいっているのか実によくわかったといって、子供のように喜んでおられたわけです。

 そこで私も大変力を得て、その中学二年のリーダーを全部朗読を通じて仕上げてしまいました。そして別の中学二年のリーダーを買ってきていただき、それを今までと同じようなやり方で朗読し、ついに二冊日の中学二年のリーダーもあげてしまったのです。ついで中学三年のリーダーに移りましょうということで、同じような方法で繰り返し繰り返し朗読をいたしました。

 考えてみれば、これは単調きわまる作業でした。私にとっても単調そのものでしたが、大越先生にとってみれは、もっとモノトナスなものであったにちがいありません。

 しかしこれが、さしものご老体の、しかもどちらかといえは口の重い大越先生の英語の聴きとり能力と表現能力とを大幅に改善するうえに役立ったことは、間違いがありません。

 というのは、やがて学会に出席するために奥さんを伴ってまずアメリカに渡られ、サンフランシスコで観光バスに乗られたのだそうですが、その観光バスの案内が実によくわかった、おかげで奥さんに通訳をすることができて、夫として大いに面目をほどこしたといって、それこそ子供のようにはしゃいだお手紙をわざわざ送ってこられたのです。やがて先生はイギリスに行かれ、学会で小委員会のチェアマンをなさったのですが、なかなかの議長ぶりであったらしいことを、帰国後ご本人の口からうかがい、私も大いに面目をほどこしました。そして私の信念が誤っていなかったことも、確証づけられたのです。そういうわけで、私は「只管朗読」を是非みなさんにおすすめしたいと思うのです。

リーダーの選びかた

 さきほどもちょっと触れましたが、朗読というのは、自分自身で時間を選び、場所を選ぶことができます。数学の問題を解くのとちがいますし、難しい哲学上の思索にふけるわけではありませんから、頭が疲れていようが何であろうが、全然かまいません。

 人間には必ず一日のうちに十分とか十五分とか、わずかな時間があるものです。そういうわずかな時間を上手につづり合わせて、そしてそれをある建設的な目標のために使うことができるかできないかということが、その人がある技術を身につけるかどうかを大きく決定してしまうと思うのです。

 朗読の場合は疲れていても少しもかまわないのですから、疲れていて、とても難しいことを考える気分的な余裕はないけれども、寝るにはまだ早すぎるというような時間がありましたら、是非みなさん、これを朗読のために使っていただきたいと思います。その効果は期して待つべきものがあると、私自身の体験を通じて申し上げることができるからです。

 それではいったい朗読のためにどういう材料を選んだらよいか、という疑問をお持ちになるかもしれません。それについて私は、内容的にいえば中学三年のリーダー以上のものである必要はない、ということを断言いたします。よって、英語の基礎的知識を身につけるためには、中学一年ないしは三年程度のリーダーの英語を反復音読すればよい、ということになります。

 もちろん英字新聞の社説であるとか、専門の書物などを朗読されるのも大いに結構です。私は、それが無用だといっているのではありません。しかし専門的な難しいものである必要はないので、中学二、三年のリーダーで充分なのだと申し上げているのです。

 考えてみると、われわれが日常的に使う語彙や表現形式や文法形式といったものは、中学の三年程度のリーダーのなかにすべて網羅されているといって間違いありません。いうまでもなく中学のリーダーには高度に専門的な用語は出てきませんし、たとえばGNPというような経済用語、あるいはPPBSというような経営用語は出てきません。そういうものはみなさん、もうすでにご存じのはずですし、それが出てこないからといって、中学のリーダーを馬鹿にするには当たらないのです。

 日本には英語を専門にしている先生が大学を含めて、たしか七万人ぐらいいるといわれていますが、日本広しといえども、英語の専門家のなかで中学三年までのリーダーに出てくる英語が迅速に、ある程度の正確さで口をついて出てくる、あるいは、筆から流れ出る人は、せいぜい五百人いるかいないかであろう、というのが私の率直な感想です。 したがって、中学三年までのリーダーを決して馬鹿にしてはいけません。そこには、すべて英語の基本は網羅しつくされているのですから。

 たとえば語彙ですが、現にオグデンとリチャーズの二人が作り上げた人工語としてのBasic Englishというのは、八百五十の単語で何でも一通りのことは表現できるのだという原則にもとづいています。

 中学三年までのリーダーには、文部省の指導要領によって八百五十はおろか、千三語程度の語彙がもられているわけですから、もう必要にして充分であるということがいえます。構文形式についても同じです。

 ただ具体的なリーダーの選びかたですが、私の経験では会話体のこま切れ的文章の多いものは、あまり朗読には適さないようです。また日本語の固有名詞が続出するようなのも不適当です。

 その意味では、小泉八雲の書いた日本に関する英文はいささか日本語の固有名詞が多すぎますし、そういうものを読んでいると、なにか興をそがれる場合がありますし、また日本語の部分はいきおい日本的なアクセントで読んでしまうものてすから、英文全体の流れとか抑揚とかの調子をくずしてしまうという難点があります。

 そこで、会話体の文章や日本語の固有名詞のできるだけ少ないリーダーを選ばれた方がいいだろうと思います。いわゆる会話書に出てくる短文も、朗読しないよりはましですが、あまりおすすめできません。

 私がいわゆる会話書の類い、つまり一行か、せいぜい二行ぐらいの単文を集めたものをあまり有効だと思わないのも、その理由です。街に氾濫している会話集は、意外に役に立ちません―というのは、それではなかなか身につかないからです。ある特定の場合にはどういうかということは覚えられても、そういう単文の知識を断片的に覚えただけでは、第一応用がききません。

 もっと内容の一貫したものを通して朗読することが望ましいのです。日本人の多くが日本語的な発想から脱けきれないのも、長い文脈で英語を話したり書いたりする訓練が不足しているからだといえましょう。その弱点を克服する道は、やはりある程度の長さと首尾の一貫した英文を音読することだと思います。

黙って坐ればピタリとわかる

 ところで、おそらくみなさんが次に疑問に思われるのは、読むときになんらかの規範(モデル)が必要かどうかという点です。ただやみくもに自己流で音読していてもなにもならないのではないか、という疑問をお持ちになるでしょう。

 たしかにモデルはあるに越したことはありません。しかし最近のリーダーには、ご存じのように大部分が英米人の吹き込みになるテープとか、レコードとか、カセットとかがついています。ですから、それらを繰り返し繰り返し開き、個々の単語の発音もさることながら、どの単語とどの単語がどのように続いているか、あるいはどこでポーズをおいているか、抑揚は果たして上昇調であるか、下降調であるかというようなことに、とくに注意し、本国人にできるだけ似せて音読されればそれでよいのです。

 また中学三年までのリーダーをおすすめするもう一つの理由は、やはり朗読するには何よりもその内容がよく理解できており、文法的な構造も、個々の単語の意味も理解できているようなものであることが望ましいからです。

 要は、内容のよくわかったものを繰り返し繰り返し反復朗読するというのが、英語を上達させる秘訣です。しかも朗読を繰り返していると、不思議なことに、ただ単に英語が自然に口をついて出てくるようになるばかりでなく、英文を見たときに、それこそ「黙って坐ればピタリとわかる」という状態になります。

 つまり、めんどうくさい文法的な構造に心をわずらわさなくても、あるいはIt~thatのこのItはどこにかかるかとか、このthatは何を受けるのだろうかというようなことをいちいち考えなくても、直読直解といいますか、文章の意味するところが自然にわかるという状態に達するものです。

 あるいは、かつて兼好法師が「筆をとれば物書かれ」といいましたが、筆をとると自然に英文が流れでてくるようになるものです。

 それゆえ「只管朗読」の効果はただ単に話せるようになるばかりではなく、書けるようにもなる、あるいはいちいち文法的な分析をしなくとも、英文が直読直解できるようになるという副次的な効果をもたらすわけです。

 ここで話はいささか脱線しますが、日本では学校英語と会話とはまったく相容れない別ものであるかのような印象が根強く存在しています。たしかに学校英語は話しかたの教授法に大きな欠陥がありましたし、それは高校卒業以上の力をもっていながら「どうも英会話は苦手です」という人が多いことで裏書きされています。しかし私は、今までの学校英語というものが、すべて無益であったとは思っておりません。もし話すという面で大きな効果がなかったとするならば、それは、要するに勉強の方法、教える方法が誤っていたのであって、リーダー自体が悪かったのではないのです。ただそれを扱う方法が不充分であった、ということに限られると考えています。

 現に長谷川潔助教授(お茶の水女子大学)の調査によると、NHKの英会話番組に出てくる会話表現の九〇%は、中学二年までのリーダーでカバーされているとのことです。したがって中学のリーダーの英文が完全にマスターでき、自由に口をついて出てくるようになっていれば、英会話の初級番組はもとより、中級番組程度の英語の運用能力は身についているはずです。犯人は決してリーダー自体ではないことが、これではっきりするでしょう。

目的化した暗記は意味がない

 ところでこのさいのもう一つの疑問は、朗読した文章を暗記する必要があるか否かということです。よく学生諸君のなかには、暗記をしなければならないと思い込んでいる人がいます。

 もちろん暗記自体は非常によいことです。しかし暗記ということが朗読の目的でない方がよいと私は思います。何回も朗読したことの結果として、自然に英文が口をついて出てくるようになるという意味での暗記、つまり目的としてではなく、結果としての暗記なら私も非常に好ましいと思います。

 しかし自己目的としての暗記を、私は必ずしも好ましいと思わないのです。なぜなら、学生時代の受験勉強を思い出してみればすぐにわかるように、なにかを憶えようとして憶えたもの、たとえば試験の前日の一夜づけのようなものは、答案を書いたとたんに頭のなかから逃げていってしまいます。

 したがって憶えようとする意志を働かせたという意味での暗記は、効果がうすいのではないかと私は考えています。

 反復朗読した結果として自然に出てきた暗記ならば、もちろん意味のあることであり、できればなんの苦痛や強制も感じないで暗記できるまでに、繰り返し声を出して読んでいただきたいと思うのです。このことは、道元禅師が説いた「只管打坐」ということにもつながると思います。悟ろうなどという気をおこさずに、ただ黙ってお坐りなさいというのが「只管打坐」であるとするならば、憶えようなどというケチなことを考えないで、とにかく黙って朗読しなさいというのが「只管朗読」だといえるでしょう。

朗読はなぜ効果があるか

 ではいったい朗読がなぜ効果があるのかということを考えてみましょう。

 この点については、次のようなことがいえるのではないでしょうか。禅仏教の故鈴木大拙博士は神秘主義に関する著書のなかで、英国の有名な詩人、アルフレッド・テニソンについて、こう述べています。

 彼はある種の神秘主義者として、精神の統一を求めたわけですが、いろいろなことを試みて、最後に到達した方法は、アルフレアド・テニソンという自分の名前を、繰り返し繰り返し口に出してみることであったというのです。

 つまりアルフレッド・テニソンという、それ自体まったく意味のないことばを繰り返し声を出して唱えることにより、ある種の精神統一の境界に到達することができたというのが鈴木大拙博士の説明です。

 これと同じことは、念仏とか、「南無妙法蓮華経」というお題目を何万回となく唱えろということにもあてはまるかもしれません。

 それはともかくとして、意味のないことばを繰り返し吐くということが、なにか精神の統一と安定を可能にし、あるいは心をむなしくすることに役立つ、という説明がつくと思います。心をむなしくしたときに、はじめてなにかがそのなかに流れこんでくるのです。

 バケツのなかにすでに水が入っていれば、それ以上に水を入れることはできませんが、バケツが空なときにはじめて水を入れることができます。これと同様に、心をむなしくすることによって、英語もまた自分のバケツのなかに入ってくるといえるのではないでしょうか。

 したがって、暗記してやろうなどという欲をださずに、ただひたすら声を出して読むことが、英語を自分のバケツのなかになみなみと入れるうえに役立つのではないか、というのが私の推論です。

書くための秘訣・只管筆写

 ところで私自身の体験に戻りますが、私は中学一年から三年にかけて朗読を繰り返し行ないましたが、それで手を使って書いてみました。「只管筆写」といっていいかもしれません。

 物資が窮乏していた当時のことですから、今日では考えられないような質の悪い藁半紙に、朗読し終わった英文をまず鉛筆で書いてみる、あるいは読みながら書いていきました。紙面が真っ黒になるまで鉛筆で書き終わると、今度はその上に赤鉛筆で書くという作業を繰り返しました。もちろん紙を節約するためです。

 このように「只管筆写」というのが、もう一つの私の具体的な勉強方法でした。その結果「筆とれば物書かれ」というような気持、ないしは習慣が少しずつ身についていったようです。いちいち文法や構文の詮索をしなくても、どうやら一通りの英文が書けるようになったからです。

身体で覚えよ

 では「只管朗読」といい「只管筆写」といい、この二つの間にある共通な要素はいったいなんでしょうか。それは身体に覚えさせるということです。

 外国語の習得は何といっても習慣の累積ですから、肉体に記憶させなければなりません。ただ単に頭で憶えただけでは不充分であり、理屈として知っているだけでは役に立たないということなのです。これを難しくいえば、ことばを内在化、つまりinternalizeさせるということになるでしょう。

 つまりは肉体の内部に定着させるということで、肉体の感覚(五感)を用いることによって自然に記憶させるのが、外国語の習得にあたってもっとも大切なことなのです。

 同じことは、ゴルフやパチンコについてもいえるかもしれません。ゴルフ・クラブの振りかたをいかに理屈のうえで知っていたとしても、それが自分の肉体の感覚の一部にまで深まっていなければ充分とはいえないからです。それと同様に、英語の場合も、肉体に覚えさせることがなにより重要なのです。

 この点をはっきりさせたのが、シカゴ大学の心理学教室の実験です。その実験の結果、正確な記憶のためにはvocalizeつまり口に出してみることが不可欠だということがわかりました。そして口に出してみない不正確な記憶を知的記憶(intellectual memory)と呼んでいます。

 ところが充分に口に出し、しかもそのうえで手を使って書くことにより、記憶はさらに正確の度を加えることがはっきりしました。そしてこの記憶をmotion memoryつまり運動記憶と呼びます。身体中のさまざまな筋肉を動かすことによって得られる記憶だから、こう呼ばれるのです。

 われわれの英語習得もすべからく運動記憶によらなければなりません。そして朗読と筆写こそは、まさに運動記憶のための格好の手段なのです。目の筋肉以外に、口や耳や手の筋肉を総動員することによって、記憶を正確にし、しかも恒久的なものにしていくことができます。目の筋肉しか使わないのと、他の筋肉をも同時的に駆使していくのと、どちらがより効果が大きいかは、一と三、ないし四のどちらが大きいかという、単純な算術の問題でしょう。

 この点に関してもう一つ思い出すのは、ひとむかし前に流行したスイスのある有名な言語心理学者の説です。その言語心理学者の説によると、外国語を憶える一番よい方法は、その言葉とその言葉の表わす行為とを同時的に行なうことだというのです。

 具体的な例をあげれば、「水を汲む」という外国語の表現を憶えようとする際には、すべからくみずから水を汲むべしというのです。水を汲むという肉体的な行為を行ないながら、口で「水を汲む、水を汲む、水を汲む」と唱えることによって、水を汲むという行為と水を汲むという表現とを一体化させることができるといいます。

 もちろんこの方法には限界があって、「死ぬ」ということばを憶える場合にいちいち死んでみせるわけにはいきません。英語でよくCats have nine lives.つまり、猫は九つの生を持つなどといいますが、さしもの猫といえども「死ぬ」という単語を憶えるたびに死んでいたのでは、生命がいくつあっても足りません。

 それはそれとして、この言語心理学者の説は、ことばを習得するうえでの、非常に重要なポイントをみごとに指し示していると思いますし、「只管朗読」ないしは「只管筆写」の言語習得手段としての正しさを裏書きしてくれていることにもなると、私は信じています。      
                                         (以上)


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