人間は聞く準備ができているものしか聞こえない――ディクテーションの極意
●文脈こそ命
英語の4技能――「読む」「書く」「聞く」「話す」――の中で、「聞く」が最も手ごわい。ほんの一瞬でも集中力が途切れると、音は空気の中に溶け込んで、消えてしまう。実際の会話では、ラジカセのテープのように巻き戻して聞き直すことはできない。
そもそも「音声」とは、究極的には「空気の振動」にすぎない。そのランダムな空気の振動から、音を切り出し、意味のある「つながり」や「まとまり」を汲み取ろうというのだから、ディクテーションは厄介な作業である。
こんな経験をした。ディクテーションを重ねた末に書き取ったのは、次の一文だった。
This base is more fragile than it looks, so please handle it carefully.
「この土台は見た目以上に壊れやすいので、取り扱いには注意してください」
――だが、どうも引っかかる。意味が妙だ。どこかがおかしい。しかし、その正体がつかめない。音源を何度も聞き返しているうちに、ふと気づいた──baseではなくvaseだと。その瞬間、霧が晴れたように合点がいった。
This vase is more fragile than it looks, so please handle it carefully.
「この花瓶は見た目以上に壊れやすいので、取り扱いには注意してください」
[b] と [v] の聞き分けは、日本人には至難の業だ。文脈を頼りに推測しなければ、「base」を「vase」へと修正することはできなかっただろう。
先のブログ、『ディクテーションの快感』で書いたように、「foreign rolling」が「before enrolling 」だと気づけたのも、文脈のおかげである。
[b] と [v] の聞き分けは日本人には難しいが、実のところ、その難しさは英語ネイティブにとっても大差ないのではないか、と想像する。なぜなら、私たち自身の日常を振り返ってみて、誰しも心当たりがあるからだ。私たちは、一つひとつの音を漏らさず正確に聞き取っているわけではない。言葉とは、バラバラの音を正確に拾い上げる作業ではなく、流れる文脈から、意味を組み立てていく営みだからだ。
●掘った芋いじるな
たとえば、「●メが降りそうだから、●サを持って行きなさい」。●の部分は聞こえなかった音である。聞こえなかったからといって、「カメが降りそうだから、エサを持って行きなさい」と、想像する人はいない。誰もが文脈から、「アメが降りそうだから、カサを持って行きなさい」と、理解する。
トイレから「おーい」と夫の声が聞こえたら、妻は即座に「トイレットペーパーが切れたのね」と察する。銀座のバーでママに「バカねー」と笑われたら、お父さんはニヤリとする。
国会の答弁で、 「補正予算案」を「予正補算案」と言い間違えても、誰も気づかなかったという。元巨人軍の長嶋茂雄選手の語録には、こんなのがある。「打つと見せかけて、ヒッティングだ」――支離滅裂だが、言わんとすることは伝わってくる。
昔、児童を連れてネイティブ講師と一緒に小豆島で英語合宿をしたことがある。小学生に、「あのネイティブのところへ行って、“ホッタ・イモ・イジンナ”と言ってごらん」と促すと、返ってきた返事は、“It’s two o’clock now.” その瞬間、その子は目を丸くして驚いていた。
このように、「音」と「意味」のつながりは、かなり大ざっぱだ。一つひとつの音を完璧に拾い上げなくても、意思疎通は十分になり立つのだ。
そう考えると、これはリスニングが苦手な受験生には朗報である。どんな音も取り逃すまいと肩に力を入れて聞くより、むしろ力を抜き、流れに身を委ねるほうがはるかに効果的なのだ。
たとえ聞き取れない箇所があっても、もたついてはいけない。立ち止まれば、音源は容赦なく先へ進み、置き去りにされる。「おそらくこういう意味だろう」と大づかみに受け取る──それこそが、リスニングを攻略する最も合理的な姿勢なのである。
●これは、何の話か?
――この作業は簡単である。まず、いくつかの山にまとめる。量によっては一山でもかまわない。設備がその場にないときは、他の場所に行く。
たくさんやりすぎないことが大切。 一度に大量にこなすより、少な目の量をこなすほうがよい。量が多いと、やっかいなことになる。
この作業は複雑に思えるかも知れないが、生活の一部にすぎない。 将来、この作業がなくなるという見通しはない。
作業が完了すると、またいくつかの山にまとめ、それらを適切な場所に入れる。このような サイクルをくり返す。これは生活の一部なのである――
実は、この話は「洗濯」の話である。いきなり、こんな話をされても、いったい何の話かと戸惑う。しかし、あらかじめ「洗濯」というタイトルが与えられているだけで、情報処理のスピードは上がり、理解はより深まるのである。
電子辞書と紙辞書では、利便性を別にして、大きな違いがある。電子辞書で enough を引くと、最初に飛び込んでくるのは「十分な」という訳語だ。そこで意味を理解したつもりになる。
しかし、実際には enough には、「形容詞」「代名詞」「副詞」の用法があり、それぞれ微妙に意味が異なる。紙辞書には「一覧性」という強みがある。ページ全体を見渡すことで、enough という語が持つ広がりや構造が、一目で掴めるのだ。
●人間は聞く準備ができていることしか聞こえない
英文5本のディクテーションを日課にして3ヵ月。5本×30日×3ヵ月で、気づけば270本を積み上げてきた。先日ついに、5本すべてをノーミスで書き切った。まさに Practice makes perfect.(練習すれば完璧になる)とは、このことだ。
そして、ここまで続けてきて確信したことがある。ディクテーションは、一音一音を必死に追いかけるより、まず全体の流れと内容を大づかみに掴んでから臨んだ方が、正答率が飛躍的に高まるということだ。
言い換えれば、ディクテーションを制する鍵は「文脈力」である。読む力があるからこそ聞き取れる。空中に漂うただの「空気の振動」を、文字として可視化できるのは、背後に読解力という強固な基盤があるからだ。
そう考えると、英語の4技能、「読む」「書く」「聞く」「話す」のなかで、最優先として鍛えるべきは「読む」である。読む力なくして、聞こえる耳は育たない。
You only hear what you are ready to hear:人間は、聞く準備ができていることしか聞こえないのだ。
2025年12月3日
