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科学が証明した日本人の言語能力

by 勝浦 郡章

―YouTube動画より

以下は、このYouTube動画を要約したものである。

この動画を見れば、文科省の掲げる「英会話重視」や「小学校からの英語教育」といった方針が、いかに的外れであるかが一目でわかる。しかもそれは、日本人の「国語力」と「英語力」を同時に損なう致命的な愚策であることに気づかされるだろう。そして最後には、日本語を母語として使う日本人に生まれたことを、心から誇りに思い、いかに幸運なことであるかを実感するはずである。

●表面的な効率性

日本語は欠陥言語なんかではない。私のテーマは、日本語の「非効率性」ではない。むしろ、その真逆だ。すなわち、「効率性」という、分かりやすい物差しだけで世界を測ろうとする想像力のない人々への警鐘なのだ。私のライフワークは、「日本語という特異な言語システムが、人類の脳をいかにして進化させるか、その可能性を探ること」なのだ。

学習コストという、初期投資の大きさだけに目を奪われてはいけない。その投資の先には、あまりにも大きなリターンがある。日本人が無意識のうちに使いこなしている日本語は、驚異的な能力を日本人の脳に与えている。

●左脳と右脳を同時に使う

これはfMRIという特殊な装置で撮影した、人が文章を読んでいるときの脳の活動データだ。脳の血流の変化を捉え、読書中に脳のどの部分が働いているかが分かる。

左側が、英語話者が英語を読んでいるときのもの。右側が、日本語話者が日本語読んでいるときのもの。英語話者の脳は左脳が明るく光っている。それに対して、日本語話者の脳は、左脳だけでなく、右脳も活発に活動している。左脳と右脳とで役割が違う。言語や論理思考を司るのが左脳。音楽や芸術、直感や空間認識といった感性を司るのが右脳。アルファベットのような表音文字は、音と文字が一対一で対応しているため、言語中枢のある左脳で処理される。

日本語の文字体系はユニークな働きを脳に強いる。表音文字である「ひらがな」や「カタカナ」は、他の言語と同じように左脳で処理される。だが、数千もの形と意味を持つ表意文字、すなわち漢字を認識するとき、日本人の脳は図形やイメージを処理するのと同じ左脳の領域も同時に活性化させている。

日本人は、普通に本や新聞を読んだりするだけで、論理を司る左脳と、感性を司る右脳の両方を、極めて高度に使いこなしているということなのだ。これは他の言語話者には見られない極めて特殊な脳の使い方だ。日常的に脳の左右両半球を鍛え上げる、無意識の知的トレーニングなのだ。脳を活性化させる驚異的なメカニズムなのだ。

●アイコンによる圧倒的な情報圧縮率

日本語は、さらにもう一つ驚異的なアドバンテージを持っている。

・I am writing a letter to my friend in Tokyo. (34字)

・東京の友人に手紙を書いている。(14字)

日本語は英語の半分以下の文字数でまったく同じ情報を伝えている。日本語は、圧倒的な”情報圧縮率”を持つ。「憂鬱」を、アルファベットで表現しようとすると、”melancholy”あるいは、”gloomy feeling”といった、多くの文字数を必要とする。日本語はたった2文字で、この複雑な心の機微を瞬時に、そして正確に伝達できる。

漢字という表意文字は一つひとつが意味の塊だ。いわば情報を凝縮したアイコンのようなものだ。日本人はこのアイコンを巧みに組み合わせることで、世界中のどの言語よりも、少ない文字数で多くの情報を、そして深いニュアンスを伝えることができる。これは、情報伝達という観点から見れば、究極の効率化なのだ。

twitterが、なぜ日本でだけ、あれほど花開き、人々が短い文章でコミュニケーションを活発に行っているのか。アルファベットでは140字という制限は、表現の幅を著しく狭める”制約”でしかない。しかし、圧倒的な情報圧縮率を持つ日本語にとっては、それは”制約”ではなく、むしろ創造性を刺激する”最適なキャンバス”だったのだ。

俳句や短歌といった、短い言葉に深い意味を込める文化的土壌も相まって、日本語とtwitterは奇跡的な出会いを果たした。日本語は、最先端のデジタルプラットフォームに最も適した言語だったのだ。驚くべきことは、それだけではない。

●3つの表記

「ありがとう」「アリガトウ」「有難う」の3つの言葉は、音にすれば同じだが、日本人はこの3つの表記から、まったく違うニュアンスを感じ取る。

「ありがとう」は、柔らかく、日常的な感謝。

「アリガトウ」は、どこか無機質を強調し、少しふざけたニュアンスを含む。

「有難う」は、改まった、心の底からの深い感謝や敬意が込められている。

日本人は、それを無意識のうちに一瞬で使い分けている。これが、日本人の持つ”三種の神器”、「漢字」「ひらがな」「カタカナ」が織りなす驚くべき表現力の正体なのだ。英語では、感謝を伝えたいとき、せいぜい”Thank you”の後に、感嘆符を付けるか、大文字にするくらいしか、文字の上での工夫はできない。

しかし日本語は、文字の種類そのものを切り替えることで、感情の温度、色彩、グラデーションを繊細に描くことができるのだ。論理的な意味を伝える「漢字」、やわらかな感情を乗せる「ひらがな」、異質なものや特別なニュアンスを与える「カタカナ」。これらを組み合わせることで、日本語の文章は、「論理」と「感情」がシームレスに融合し、極めて高度な多重構造を持つ。これは、単なる情報伝達のツールを超えている。人の心の機微を描き出す魔法のパレットなのだ。

複雑で面倒だと感じられる3つの文字体系は、繊細な心象風景を表現するために、日本人が千年の時をかけて育んできた、かけがえのない道具なのだ。「喜び」「悲しみ」「わびしさ」「愛おしさ」といった、心の奥底にある名付けようのない感情の揺らぎを、この3つの文字はすくい取ってくれる。川端康成の美しい文章や、夏目漱石の巧みな心理描写は、この文字の魔法があったから生まれたのかも知れない。

●カタカナ表記の意味

日本語は外来語をカタカナで表記する。唐突に現れるカタカナは、ときには不自然で煩わしく感じる。多くの言語は外来語を取り入れる際、自国の文字体系に合うように形を変え、同化させてしまう。あるいは元の言語の綴りのまま、異質なものとして文章に混在させる。

しかし、日本語はそのどちらでもない第三の道を選んだ。カタカナという角張った、どこか異質な印象を与える文字。これは外から来た言葉に、視覚的な”印”を付けるための極めて優れた発明なのだ。文章のなかにコーヒーという文字を見た瞬間、日本人の脳は、それが元々日本にあった言葉ではないことを一瞬で、そして無意識に理解する。これは異文化に対する驚くべき”仕分け能力”の表れである。

日本は古来、大陸や西洋から多くの文化や技術を取り入れてきた。しかし、決して元の文化を破壊し、自分たちの色に塗りつぶしてしまうことはなかった。そこには常に外から来たものへの敬意と、自分たちが元々持っていたものとを、明確に区別する意識があった。カタカナとはその精神性の象徴なのだ。

“異文化”を排除しない、かといって、元々の文化と混同もしない。新しい価値観として受け入れつつも、「これは外から来たもの」という自出を明確にする。この絶妙なバランス感覚こそ、日本が多様な文化を受け入れながら、独自のアイデンティティを失わずにいられた最大の理由かも知れない。

●オノマトペの魔法

英語で雨の音を表現しようとすれば、”pitter-patter”くらいしかない。しかし、日本語は、「ザーザー」「しとしと」「ぽつぽつ」「パラパラ」と、雨の情景や質感を、実に豊かに描き分けることができる。痛みを表現するにも、「ズキズキ」「キリキリ」「ガンガン」と、その違いを音で伝えられる。言語学の世界では、日本語は世界で最もオノマトペが豊かな言語の一つとして知られている。その数は英語の3倍以上とも言われている。これは単に語彙が多いという話ではない。

論理では説明しきれない”感覚”そのものを、言葉として共有するシステムが、日本語には深く根付いているということなのだ。子どもの読む絵本には、「わんわん」「にゃーにゃー」といった愛情のこもったオノマトペがあふれている。この豊かなオノマトペは、こどもたちの豊かな感性を育む上で、非常に重要な役割を果たしている。世界の解像度を上げ、ものごとをより繊細に感じ取る心を養うのだ。

そして、それは子どもの世界だけにとどまらない。「どっどど どどうど どどうど どどう」。宮沢賢治の描く風の音は、もはや単なる擬音ではない。それは読者の心に直接響き、物語の世界へと引き込む、魔法の呪文だ。このように、オノマトペは日本人の文学を、豊かで、感覚的なものへと昇華させてきた。それは、論理だけでは決して描き出すことのできない、情景や感情の”音のスケッチ”なのだ。

●日本語の豊かさの原点

日本語の豊かさの原点には、千年以上前に起きた一つの偉大な発明がある。日本人は、大陸から漢字という先進的な文字システムを取り入れた。

しかし、すぐに大きな壁にぶつかる。漢字は、中国語を記述するための文字だ。助詞や助動詞が豊かな日本語は、大和言葉の繊細な響きや語尾の変化を、漢字だけで表現するには、あまりにも硬すぎたのだ。「山」や「川」といった名詞は漢字で書ける。しかし、「やま”に”のぼる」の”に”や、「かわ”が”ながれる」の”が”は、どうするのか。恋しい人を想う、心の揺らぎはどう表現するのか。そこで古代の日本人は驚くべき想像力を発揮した。

漢字の形を、極限まで崩し簡略化し、その音だけを借りて表記する、まったく新しい文字を発明した。流れるような優美な曲線を描く文字、それが「ひらがな」だ。これは世界の文字史の中でも極めて独創的な発明である。この発明の役割を担ったのが、漢字を学ぶ機会が限られていた宮中の女性たちだった。彼女たちは自らの細やかな感情や、心の機微を表現するために、この新しい文字を磨き上げ、洗練させていった。

今から千年以上の昔、紫式部は『源氏物語』を書いた。このひらがなという武器を手にして、心の奥深くにある光と闇、複雑な恋愛模様を、美しく深く描いた。それは世界文学史における、一つの奇跡だ。硬い漢字だけでは決して生まれなかった、感情表現の大革命だった。その扉を開いたのが、「ひらがな」という偉大な発明だったのだ。

●カタカナの発明

「ひらがな」が宮中の女性たちの繊細な感性から生まれた”柔”の文字だとすれば、「カタカナ」は学問の世界で生まれた”剛”の文字だと言える。カタカナの起源は奈良時代にまで溯る。当時の学問僧たちが、大陸から伝わった仏教の経典を学ぶ際に、その補助記号として発明したものだ。漢文で書かれた難解な経典の横に、読み方やアクセントを示すための、簡単の記号を書き込んだ。漢字の一部を極限まで削ぎ落として作り出した、学問のための”付箋”のようなものだった。

カタカナは時代が下るにつれ、その役割を大きく変えていく。ひらがなが、主に和歌や物語といった日本固有の文化を担う文字として発展したのに対して、カタカナは、漢語や仏教用語といった、外来の学術的な概念を示す文字として、その地位を確立していった。近代になり、西洋から怒濤のように新しい文化や技術が流れ込んで来た時、日本人は、カタカナを実に巧みに活用した。テレビ、ラジオ、コンピュータといった、新しい概念をカタカナで表記することで、それが外から来た新しい知識であることを、瞬時に人々に理解させた。

この文字の使い分けは、ただの慣習ではない。日本が、いかにして異文化と向き合ってきたか、その歴史そのものを体現している。新しいものを貪欲に受け入れながら、それによって自分たちの根幹が揺らぐことはない。

なぜなら、ひらがなで書かれるべき”大和の心”とカタカナで記されるべき”外来の知恵”を明確に区別し、共存させる知恵を千年以上も前から持っていたからだ。カタカナという文字の歴史の中に、度重なる文化の波を受け止め、それを自らの力へと変えてきた、しなやかな日本の姿がある。

●非効率な漢字学習のコスト

物事の価値はどの時間軸で見るかによって、まったく違って見える。数千もの漢字を覚えるという作業は、膨大な時間と労力を要する。しかし、これは初期投資に過ぎない。日本人は、この巨大な初期投資の引き換えに、言語教育全般にわたって享受できる計り知れない恩恵を手にしているのだ。その最大の恩恵が、同音異義語を瞬時に判別できる能力だ。

「きしゃのきしゃがきしゃできしゃした」。ひらがなだけでは、この文の意味を正確に理解することは難しい。しかし、日本人の脳は漢字を見ることで、瞬時に「貴社の記者が汽車で帰社した」と、4つの「きしゃ」を正しく判別し、意味を確定させることができる。これは、驚くべき情報処理速度である。アルファベット言語で、もしこれほど同音異義語が多ければ、読解速度は著しく低下するだろう。しかし、表意文字を持つ日本人は、意味の塊を視覚的に捉えることで、その問題を軽々とクリアーしている。

読書が速い人間は、文字を読んでいるのではなく、写真を見るように単語の塊を認識しているという。漢字文化圏の人間は、まさにそれを日常的に行っている。漢字学習という高いハードルは、参入障壁であると同時に、一度に乗り越えてしまえば、その後の思考と情報処理を飛躍的に加速させるための、強力なブースターとして機能する。短期的に見れば非効率、しかし、生涯という長期的な視点で見れば、これほど効率的なシステムは他に類を見ない。非効率だと考えられる漢字学習は、未来の自分への最高の贈り物なのだ。

●日本語の特異性

日本語の特異性は、文字や語彙だけではない。日本語の構造そのものが、日本人の思考様式に深い影響を与えている。日本人が英語を学ぶうえで最も苦労することの一つが、英語では主語の省略が許されないことだ。

日本語で「昨日、映画に行ったよ」は、英語では「”I” went to the cinema yesterday.」英語では、主語を常に意識しなければならない。「主語を明確にし、誰が何をしたかを常に言葉にする」。これを、言語学の世界では『ローコンテクスト』、つまり、文脈への依存度が低い文化と呼ぶ。それに対して、日本語は『ハイコンテクスト』で、文脈への依存度が極めて高い言語である。

日本語では、主語を言わなくても、目的語を言わなくても、その場の空気や相手との関係性、これまでの会話の流れ、つまり「文脈」から、コミュニケーションが成立する。これほどまでに文脈に依存した言語は他に類を見ない。

そして、この言語能力が、日本人の持つ特殊な能力を育んでいる。言葉にされていない相手の意図を読み取る。表情や声のトーン、沈黙に込められた意味を感じ取る。日本人は、日常会話の中で、常にこの高度な知的作業を行っている。

それは、単なる共感能力ではない。膨大な文脈情報の中から、相手の真意という「正解」を導き出す、極めて高度なコミュニケーション能力なのだ。英語での会話は、言葉と言葉のキャッチボールだが、日本語での会話は、言葉と言葉のあいだにある「間」も読み取っているのだ。西洋的な視点から見れば、それは曖昧で非論理的に見えるだろう。

しかし、それは言葉という論理を超えたレベルで、互いの意図を深く理解し合う関係性を構築しているのだ。それは非論理的なのではなく、むしろ「超論理的なコミュニケーション」なのだ。日本語は曖昧なのではなく、相手を深く理解しようとする思いやりの言語なのだ。

●世界の天才たちを魅了した日本語

ドナルドキーン博士は、その人生を日本の古典文学の研究に捧げた。彼が最も愛したのは、日本語そのものが持つ「美」だった。彼は、日本語の文章が持つ独特のリズム、言葉の響きの美しさは、まるで音楽のようだと賞賛した。

特に、主語がなくても通じるという曖昧さが、かえって読者の想像力をかき立て、物語に深い余韻を与えるのだと看破した。彼にとって、日本語の非合理生は欠陥ではなく、むしろ芸術的な豊かさの源泉だったのだ。

ドイツの文豪ゲーテは、直接日本語に触れたわけではないが、日本から伝わった美術品や物語を通して、日本人の精神性に深く感銘を受けた一人だ。彼は、自然の移ろいの中に美を見出し、万物に霊性が宿ると考える日本の思想に、自らの自然観との強い共鳴を感じていた。

アインシュタインもまた日本を訪れた際に、日本文化に深く驚嘆したといわれている。彼は、日本人が見せる謙虚さ、静けさを尊ぶ心、全体の調和を重んじる姿勢に、西洋人が失ってしまった大切な何かを見出した。彼は、そのような精神性を育んだ背景に、日本語が持つ特質があるのではないかと、鋭く洞察していた。

西洋のいわば知の巨人たちが、なぜ日本の言葉や文化にこれほどまでに惹きつけられたのか。それは、彼らが自らの文化の持つ論理性や合理性の、その先にある世界を探し求めていたからに他ならない。論理では割り切れない、言葉では説明し尽くせない人間の感情や自然の奥深さのヒントが、このユニークな日本語の中に隠されているのではないかと、彼らは直感的に感じ取っていたのだ。世界の天才たちが、日本語の中にインスピレーションの源泉を見出していたのだ。

●論理で割り切れる世界はほんの一部

若い頃の私は、言語というものを、純粋に論理的なシステムとしてしか見ていなかった。いかに正確に、いかに無駄なく情報を伝達するか、それこそが言語の至上命令だと信じて疑わなかった。

その価値観のなかでは、私の母国語である英語や、その源流にあるラテン語こそが、最も完成された言語だと考えていたのだ。だが、研究を深めるにつれて、私はある種の限界を感じるようになった。論理で割り切れる世界は、我々が生きる世界のほんの一部でしかないのではないのと。言葉にすればするほど、こぼれ落ちていく感情がある。分析すればするほど、遠ざかっていく事実がある。私の言語学は、その壁の前で、立ち尽くすばかりだった。

そんなとき初めて、日本語に出会い、その複雑さにただただ辟易した。非合理で、曖昧で、理解しがたい言語だと考えていた。しかし、学べば学ぶほど、その印象は畏敬の念へと変わっていった。日本語は、単なるコミュニケーションのツールではなかった。それは、論理の網の目からこぼれ落ちる、繊細な感情や、自然との一体感、言葉にならない気配のようなものまでを、見事なまでに掬い取ってみせる驚くべき器だったのだ。それは、私にとって「世界再発見」と呼ぶべき、衝撃的な体験だった。

私が長年追い求めてきた、論理の向こう側にある世界、曖昧さの中にこそ宿る豊かさ、言葉にならないものの中にこそ存在する真実、そのすべてが日本語の中にはあったのだ。西洋言語が、私に世界の「半分」を教えてくれたものだとすれば、日本語は残された「もう半分」の存在を鮮やかに見せてくれた。それは、論理では決して捉えきれない世界の深淵である。だからこそ、私はこの言語に魅了され、その研究に私の人生を捧げているのだ。

●”Devil’s tongue”「悪魔の言語」

物事の表面しか見なければ、そうとしか見えない。単純な学習効率や、論理的な整合性だけを物差しにすれば、日本語は「非効率的」に見えるだろう。それは凡人の視点だ。しかし、その奥にある脳を活性化させる力、情報を高密度に圧縮する力、そして論理を超えた感情や感覚を表現する力、その本質に気づいたとき、その評価は180度転換する。脳の左右両半球を同時に駆動させ、3種類の文字を使い分けて心の機微を描き、豊かなオノマトペで世界の解像度を上げる。これほどまでに高度で多機能な言語システムは、世界広しといえども他に存在しない。

それはあまりにも多くの能力を内包しているがゆえに、その真のポテンシャルを常人には到底使いこなすことができないのだ。私のような言語の探求者から見れば、それはもはや人間が作ったシステムとは思えない。あまりに複雑で、あまりに豊かで、そしてあまりに強力すぎる。まるで人間以外の、何か超越的な存在が作り出したかのような、まるで悪魔の所業なのだ。

だから、私は心から畏敬の念のを込めて日本語を、”Devil’s tongue”すなわち、「悪魔の言語」と呼んでいるのだ。日本語は「非効率」というレッテルは、その言語が持つ常人には計り知れないほどの奥深さに対する、凡人の見方に過ぎない。日本語の本質は、人間の脳が持つ可能性を最大限に引き出す、高度で強力なシステムなのだ。「悪魔の言語」という表現は、侮蔑の言葉などではなく、一つの言語が到達した神業にも近い領域に対する賛辞なのだ。日本人が当たり前に話すこの日本語は、ハンディキャップなどでは断じてない。

むしろ、日本人の思考を他のどんな言語話者よりも、豊かに、深く、そして多機能に拡張してくれる「世界最高のオペレーティングシステム」なのだ。論理と感性を同時に操り、情報を極限まで圧縮し、豊かな感情を織り交ぜる。その複雑さゆえに、日本人の脳は日々鍛えられ、その曖昧さゆえに、日本人は、人の心を深く察する術を学ぶ。日本語を話すことは、短所などではなく、世界に類を見ない長所であり、強みなのだ。母語は、その人間の根っこにあるもの、自分という人間を形作っている最も重要な部分なのである。

●日本人が英語学習で苦労する理由

日本人が、英語学習で人一倍苦労する理由が、ここにある。日本人が、英語のようなまったく違う構造の言語を学ぶとき、脳の中では極めて複雑な処理が行われてる。それは一つのコンピュータの上で、二つの全く異なるOSを同時に動かすようなものだ。論理と感性を同時に操る「日本語OS」と、純粋に論理で構築された「英語OS」。この二つを切り替えながら思考するのだから、処理が重くなり、時間がかかるのは、むしろ当然のことなのだ。

日本人の語学習得の苦労は、能力が低いからではない。むしろ、日本人の脳がそれだけ高度で複雑な母国語を、深く内面化していることの何よりの証拠なのだ。それは二つの世界を生きるための、尊い格闘の証なのだ。そして、その困難を乗り越えた先に、他の誰にも真似できない、ユニークな視点を手に入れることになる。「論理の世界」と「感性の世界」、その両方を知る日本人は、どちらか一方しか知らない人々には見えない、物事の多面的な姿を捉えることができるようになる。

「西洋の合理性」と「東洋の調和」、その二つの価値観を自らの中に共存させることができる。それは、これから多様化する世界で人々を繋ぎ、新しい価値を生み出すための、何物にも代えがたい「武器」となるだろう。

外国語を学ぶということは、単に便利なコミュニケーション・ツールを得ることではない。日本語は日本人の思考の根幹をなす。それは、日本語という揺るぎない根幹があってこそ、初めてその意味をなす。異なる言語、異なる思考様式に触れることで、自らが立つこの日本語という大地が、いかに豊かで、かけがえのないものであるかを、改めて知ることができる。そして、その大地にしっかりと根を張っているからこそ、日本人は自信を持って世界と対話することができるのである。

●言葉は記号の羅列ではない

日本語は3種類の文字を組み合わせて使う。「論理的な意味を伝える文字」「柔らかな感情を伝える文字」、そして「外から来た新しい文化を示す文字」。それらを使い分けることで、言葉に込める気持ちの細やかなグラデーションを描き出すことができる。歴史や文化が違う。話す言葉が違う。それは優劣ではなく、ただの違いに過ぎない。その違いに中にこそ、互いを豊かにする、素晴らしい発見が隠されている。

日本人が、毎日なにげなく使い、なにげなく目にしている日本語は、ただの記号の羅列などでは決してない。平安の宮中で、自らの繊細な心を表現するために生み出された、ひらがなの優美な流れ。学問の場で、異文化の知恵を正確に受け止めるために生まれた、カタカナの理知的な響き。そして、そのすべてを支える一つひとつに深い意味を宿した、漢字という大いなる礎。

それらすべてが千年という時を超えて、無数の先人達のてによって磨き上げられ、受け継がれてきた。日本人が当たり前に使う日本語は、日本人の魂を入れるために誂(あつ)らえられた、世界でただ一つの美しく、そしてかけがえのない器なのだ。言葉は、単に思考を伝える道具ではない。言葉は、我々の思考そのものを形作る鋳型(いがた)のようなものだ。論理と感性を同時に使いこなし、言葉にならない空気や気配を察し、自然の移ろいに細やかな名前を与える。

そうした日本語の持つ特性が、日本人の物の見方や感じ方、そして独特の文化の根幹を、静かに、しかし確かに育んできた。これは、他の誰にも真似できない日本人だけが受け継いできた、世界に誇るべき文化遺産である。日本語は、他者を退けるための冷たい壁ではない。むしろ、日本人の足場が固まったからこそ、敬意をもって、世界の多様な文化と向き合うための、暖かい土台となるのだ。

2025年9月15日

科学が証明した日本人の言語能力

―YouTube動画より

以下は、この64分のYouTube動画をさらに要約したものである。

この動画を見れば、「英会話重視」や「小学校からの英語教育」といった方針が、いかに的外れであるかがわかる。それは、日本人の「国語力」と「英語力」を同時に損なう愚策であることに気づかされるだろう。

最後に、日本語を母語として使う日本人に生まれたことを、心から誇りに思い、幸運なことであるかを実感するだろう。

●表面的な効率性

効率性だけで世界を測る発想は誤りである。日本語を習得するときの学習コストの大きさに惑わされず、その先にある日本語が脳に与える驚異的なリターンに注目すべきだ。

●左脳と右脳を同時に使う

読書中、英語話者は左脳が活動する。日本語話者の脳は、左脳だけでなく、右脳も活動する。言語や論理思考を司るのが左脳。音楽や芸術、直感を司るのが右脳。

アルファベットのような表音文字は、音と文字が一対一で対応しているため、左脳で処理される。

日本語では、表音文字である「ひらがな」や「カタカナ」は、左脳で処理される。だが、表意文字である漢字を認識するとき、日本人の脳は左脳も同時に活性化させる。

日本人は日常的に無意識に知的トレーニングを行っているのである。

●圧倒的な情報圧縮率

「I am writing a letter to my friend in Tokyo. (34字)」「東京の友人に手紙を書いている。(14字)」

日本語は英語の半分以下の文字数で同じ情報を伝えている。日本語は、圧倒的な「情報圧縮率」を持つ。「憂鬱」を、アルファベットで表現しようとすると、”melancholy”あるいは、”gloomy feeling”といった、多くの文字数を必要とする。日本語はたった2文字で、この複雑な心の機微を瞬時に、そして正確に伝達できる。

日本語は漢字による高い情報圧縮力を持ち、少ない文字数で深い意味を正確に伝えられる。その特性は俳句や短歌の文化と結びつき、Twitterのような短文媒体に最も適した言語としても機能している。

●3つの表記

「ありがとう」「アリガトウ」「有難う」は同じ音でもニュアンスが異なる。

漢字は「論理」、ひらがなは「柔らかさ」、カタカナは「異質感」を担い、この三種の文字体系が日本語の高度な表現力を支える。

「喜び」「悲しみ」「わびしさ」「愛おしさ」といった、心の奥底にある名付けようのない感情の揺らぎを、この3つの文字はすくい取ってくれる。

川端康成の美しい文章や、夏目漱石の巧みな心理描写は、この文字の魔法があったから生まれたとも言える。

●カタカナ表記の意味

日本語のカタカナ表記は、外来語に「異質さ」という視覚的な印を与え、元来の文化と新しい文化を区別しつつ受け入れる仕組みである。

これは異文化への敬意を示し、日本が多様な文化を取り込みながら自らのアイデンティティも保ってきた象徴である。

●オノマトペの魔法

英語での雨の音は、”pitter-patter”くらいしかない。しかし、日本語は、「ザーザー」「しとしと」「ぽつぽつ」「パラパラ」と、雨の情景や質感を、描き分けることができる。

日本語は世界で最もオノマトペが豊かな言語である。

論理では説明しきれない「感覚」そのものを、言葉として共有するシステムが、日本語には深く根付いている。

絵本には、「わんわん」「にゃーにゃー」といったオノマトペがあふれている。このオノマトペは、こどもたちの豊かな感性を育む。

それは子どもの世界だけにとどまらない。「どっどど どどうど どどうど どどう」。宮沢賢治の描く風の音は、もはや単なる擬音ではない。それは読者の心に直接響き、物語の世界へと引き込む、魔法の呪文だ。

●日本語の豊かさの原点

日本語の豊かさは、漢字を崩して生まれた「ひらがな」の発明にある。

漢字の形を、極限まで崩し、その音だけを表記する、まったく新しい文字を発明した。

この発明の役割を担ったのが、宮中の女性たちだった。彼女たちは自らの細やかな感情や、心の機微を表現するために、この新しい文字を磨き上げ、洗練させていった。

宮中の女性たちが感情を伝えるために磨き上げた結果、繊細な表現が可能になった。紫式部の『源氏物語』はその成果であり、

ひらがなは世界文学史における感情表現の大革命をもたらした。

●カタカナの発明

ひらがなの「柔」に対し、カタカナは「剛」である。

カタカナは、テレビ、ラジオ、コンピュータといった外来の概念を表記し、ひらがなは大和の心を示す。

日本は異文化を取り込みながら自らの基盤も守り続けてきた。

●漢字学習のコスト

「きしゃのきしゃがきしゃできしゃした」を、日本人の脳は瞬時に「貴社の記者が汽車で帰社した」と、4つの「きしゃ」を正しく判別する。

漢字学習は膨大な労力を要するが、その見返りに日本人は同音異義語を瞬時に判別し、意味の塊として高速に処理できる力を得る。これは読解や思考を加速させる強力なブースターであり、短期的には非効率でも、生涯的には極めて効率的なシステムである。

●日本語の特異性

日本語では、主語や目的語を言わなくても、その場の空気や相手との関係性、会話の流れから、コミュニケーションが成立する。

日本人は、言葉にされていない意図や感情を表情・声・沈黙から読み取る高度な能力を日常的に培っている。これは言葉を超えて相手を深く理解する「超論理的なコミュニケーション」である。

●世界の天才たちを魅了した日本語

ドナルド・キーンは日本語のリズムや響きに音楽的な美を見出し、想像力を刺激する芸術であると賞賛した。ゲーテは自然と霊性を重んじる日本思想に共鳴した。アインシュタインは日本人の謙虚さや調和の精神を賞賛した。

●論理で割り切れる世界はほんの一部

若い頃の私は、言語を論理的伝達の道具と捉え、西洋言語こそ、その完成形と信じていた。

だが日本語を学ぶうちに論理を超えて繊細な感情や自然との一体感をすくい取る力に気づき、世界を再発見する体験となった。

西洋言語が示した「半分」の世界に対し、日本語は残る「もう半分」を鮮やかに示していた。

●”Devil’s tongue”「悪魔の言語」

3種類の文字で、心の機微を描き、豊かなオノマトペで世界の解像度を上げる。これほどまでに高度で多機能な言語システムは、他に存在しない。

日本語は「非効率」に見えるが、実際には脳を活性化させ、情報を高密度に処理し、論理を超えた感情や感覚を表現する高度で多機能な言語システムである。

その複雑さゆえに常人には使いこなせないが、探求者にとっては「悪魔の言語」と呼ぶにふさわしい神業的な力を持つ。

日本語は日本人の思考を豊かに深く拡張し、曖昧さによって他者の心を察する能力も育む、世界に類を見ない母語の強みである。

●日本人が英語学習で苦労する理由

日本人が英語学習で苦労するのは、「論理的な英語OS」と「感性を含む日本語OS」という二つの異なる思考システムを同時に切り替える必要があるからである。

この格闘を経て、日本人は論理と感性、合理性と調和という二つの視点を兼ね備え、多面的に物事を捉えるユニークな能力を獲得する。

外国語学習は単なるコミュニケーション手段ではなく、日本語という思考の根幹の豊かさを再認識し、世界と自信を持って対話する力を育む行為である。

2025年9月15日

 

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