『700選』の暗記は生きる力を生む 

 

音読のすすめ(19)

 

だれでも英語が話せたらいいと思っている。ではどうすればいいのか?

●「例文集」を完全に暗記する

行方昭夫(なめかたあきお)・東大名誉教授は、『身につく英語のためのA to Z』のなかで、次のように語っている。

― リスニングで聞き取った英語の意味を把握する方法としては、短い例文の暗誦が有効です。佐々木高政『和文英訳の修業』(文建書房)、高校英語研究会編『改訂 英作文の栞』(山口書店)、鈴木長十・伊藤和夫編『新・基本英文700選選』(駿台文庫)など、どれもすぐれています。

私自身は、『和文英訳の修行』の最初にまとめられている500題を、英文からも和文からも、瞬時に言えるように暗記したものです。

『新・基本英文700選選』にはCDが付いていますから、聞き取りの練習もできて便利です。

このような数の例文の暗記など、自分には無理だと諦める人もいるでしょうが、若いときの記憶力で大丈夫です。(P143~P144抜粋)

「英作文を書かせれば、その生徒の英語力の全体がわかる」といいます。英作文の力をつける方法は、300以上の短文を暗記することです。和文を見たら、瞬間的に反対ページの英文が口をついて出てくるまで暗記を完全に行うことです。

これはしゃべる場合にも、役立ちます。300~500の例文を覚えれば、自分の言いたいこと、書きたいことのすべてが必ず表現できます。言えますし、書けます。もし完全に覚えられれば、瞬時に話し、書けます。

私は学生の時に、『和文英訳の修行』に出会い、冒頭の500例文を暗記しました。困ったのは、300まで覚えると、最初の50を忘れることでした。でも、何度も初めから繰り返して、ついに完全に暗記しました。

教員として、いろいろな英文の説明のために、黒板に500のうちのどれかを書いてきました。英語の論文を書く時も大いに利用しました。外国人と会話する時にも役立ちました。私の財産です。(P157~P161抜粋)―

●英作文と「例文集」

行方教授は、「例文集」を暗記することで、「言いたいこと、書きたいことのすべてが表現できる」という。では、どのように言えるようになるのか、具体的に解説しておこう。

 (1) (2)を英訳せよ。(東京大学1994年)

(1) いつ結婚するか、子供を産むか産まないかは、各人の自由な判断によるべきだ。
(2) いまの傾向が続くと今後30年足らずのうちに、65歳以上の人が4人に1人を占める。

『新・基本英文700選』をベースに考えると、(1)の英文を書こうとすると、次の例文が頭に浮かんでくる。

You can depend on the timetable to tell you when trains leave.(99)
時刻表を見れば発車の時間がわかります。

I’m not certain where this ought to be put.(154)
これをどこへ置いたらよいのか、よくわからない。

I did not know what answer to give.(371)
何と返事をしたらよいか私にはわからなかった。

(2)の英文を書こうとすると、同様に、次の英文が浮かんでくる。

If global warming continues at the current pace, life as we know it will end.(479)
もし地球温暖化がこのまま進めば、われわれの知る今のような生活はできなくなるだろう。

This house will not sell as it stands.(481)
この家は今のままでは売れないだろう。

頭に浮かんできた上記の英文をもとに英作すると、こんな答案を書くことができる。

 解答例:

(1) You should decide for yourself when to marry and whether or not to have a child.

(2) If the current tendency continues, one out of every four people will be over 65 years old in less than thirty years.

覚えた例文が、そっくりそのまま使えるわけではないが、英文を書いたり話したりする際に、どのような構造の英文になるかのイメージは、瞬時に湧く。

『700選』を覚えていれば、自分が言いたいことが何であれ、それに近いセンテンスを『700選』の中から選び出すことができる。そのセンテンスにマイナーチェインジを加えれば、ほぼ自分の言いたいセンテンスを作ることができる。行方教授が「言いたいことのすべてが表現できる」というのも、うなずける。

●英文解釈と「例文集」

こんどは、英文解釈で、「例文集」の暗記がどのように反映されるかをみてみよう。

 次の英文を訳せ。大阪大学(後期日程)1999年

We have all probably seen the miracle of people under extreme pressure, be it physical, emotional or moral, developing a new and shining strength.

『700選』を頭にたたき込んでいる受験生なら楽勝だが、そうでない受験生はお手上げだろう。細かいチェックポイントはわきに置いて、山場となるポイントだけを解説しておこう:

“be it physical, emotional or moral”

『700選』には次の文が載っている。

Be it ever so humble, there is no place like home.(326)
どんなにむさくるしくても、わが家にまさるところはない。

これは次の文が元になっている。

①However humble it may be, there is no place like home.
②No matter how humble it may be, there is no place like home.
③If it be ever so humble, there is no place like home.
④Be it ever so humble, there is no place like home.

①②は、通常の譲歩構文。

③のifは、even if 。「たとえ~でも」の意味。
beは仮定法現在の古い形。今はisが用いられる。

④は、③でifが省略されたことによる倒置。

したがって、問題文の”be it physical, emotional or moral”は、”even if it is physical, emotional or moral”と言い換えることができる。

 解答例:

ひどく困難な状況下に身を置く人間が、肉体的であれ、感情的であれ、道徳的であれ、今まで持っていなかったすばらしい力を発揮するという奇跡的な出来事を、おそらく誰もが目にしたことがあるだろう。

●一粒の小麦が山をつくる

『700選』を覚えて、「かろうじて言えるようになる」のも、「瞬時に言えるようになる」のも、言えるようになることに変わりはない。「完全に覚えた」とはどのような状態を指すのか。「瞬時」とはどのような速さをいうのか。こだわりだすとキリがない。

ヘーゲルは「量質転化」で、「一粒の小麦を積み上げていけばいつかは小麦の山ができる」という。回数が増えれば増えるほど、山は大きくなる。どれくらいの規模の山にするかは、自分が納得がいくまでということになる。(ヘーゲルの「量質転化」

『700選』でいえば、私自身は、暗唱回数が100回を超えたあたりから、和文を見ると、瞬時に英文が口から出てくるようになった。現在の暗唱回数は270回になる。

暗唱は、「5センテンスを10回くり返す」やり方をとっている。これにかかる時間は、平均4分。1センテンスにつき5秒。したがって、『700選』を1周するのに要する時間は、1時間弱(700×5秒 = 3,500秒)。

わずか1時間の暗唱をくり返すだけで、会話力を維持し、それに磨きをかけることができるなら、たいした労力ではない。

●慣性の法則

Newton’s law of inertia:A body at rest tends to remain at rest and a body in motion tends to remain in motion.「静止している物体は静止を続け、運動している物体は運動を続ける」。この慣性の法則は、学習にも当てはまる。

『700選』を攻略にするのに、0から100までの段階を登りつめるとする。0から1への1段と、99から100への1段とでは、まるで意味が違う。

自転車はこぎ始めがいちばんペダルが重い。だが、いったんこぎ出せばペダルは軽くなる。軽くこぐだけでスイスイ進む。回転数を上げるのに力はいらない。現在270回目を暗唱しているが、取り組み始めたころの、イライラや、ストレスはない。暗唱しながら満足感に包まれている。『700選』に挑み始めたばかりの人にはイメージしづらい世界だが、継続していれば必ずそういう世界が訪れる。

0から1は、「静」から「動」への変化だから、とてつもなく大きなエネルギーがいる。『700選』の暗記は、圧倒的大多数の人が、冒頭の4、50センテンスで挫折すると考えられる。

●たとえ暗記できなくても

『700選』について、著者の伊藤和夫氏は、『英語の学習法』のなかでこう言っている。

学生:『基本英文700選』を覚えろということですか。
伊藤:何もそんなことは言っていない。
学生:あの本を全部覚えた人は一人もいないとも聞きました。

伊藤:全部覚えたという人を、おおぜい知っているよ。最後までやらなければ力がつかないというものでもない。途中で投げ出した人がいるのは分かるが、覚えれば覚えただけのことは必ずある。覚えようとしていったん意識の底に沈めたものが、完全に消滅することなど決してない。『700選』を覚えることからは、何百ページの英文を読むことに匹敵する効果があることも忘れないでもらいたい。一つひとつの英文は忘れてもいいから。(以上)

アイソメトリック(isometric)と呼ばれる「静的な筋トレ法」がある。1kgのダンベルを何度も持ち上げるのは、「動的な筋トレ法」。びくともしない重いバーベルを持ち上げようとするのが、「静的な筋トレ法」。壁は押しても動かないが、「腕」「肩」「背中」「腰」「足」と、さまざまな筋肉が働いているのは容易に想像がつく。目には見えなくても、十分な筋トレになっている。

『700選』の丸暗記はできなくても、壁を押すのと同じで、やっただけのことは必ずある。挑もうとしたこと自体がすばらしい。まわりを見渡せば、安直な学習法であふれかえっている。そんななか、あえて『700選』に挑もうとしたそのチャレンジ精神は評価に値する。

「成功とは、達成物ではなくむしろ、達成する行為のことである」と、『700選』にある。
Success is not so much achievement as achieving.(548)

●断固たる決意で

小手先の工夫や、安易なノウハウで、『700選』は覚えられない。「ぜったいに覚えるんだ」という断固たる決意がいる。先を気にしてはいけないし、後ろを振り返ってもいけない。目の前の1文だけに集中する。

むかし、フルマラソンを数回走ったことがある。マラソンは35キロを過ぎてからが苦しい。足が動かなくなる。棄権しようかと思うほどツラい。朦朧(もうろう)とする意識のなかで、こんなことを考えながら走った。

<棄権はいつでもできる。あと1歩だけ進もう。右足を出したら、次は左足。ギブアップさえしなければ、ゴールには間違いなく近づく。あと何キロと考えてはいけない。次の1歩にだけ集中しよう>と。

●『700選』を暗記すると何が起こるのか

アマゾンのカスタマー・レビューを読むと、『700選』を暗記して、全国模試で1位になったとか、10番以内に入ったという書き込みを目にする。当然のことだろうと想像できる。『700選』の暗記は並大抵のことではない。『700選』を攻略した人たちは、「勉強の仕方」や「努力の仕方」がわかっているといえる。全国模試で上位にランクインするのも不思議ではない。

さらに、『700選』の攻略は、トータルな英語力の向上だけにとどまらない。

『700選』は、難攻不落の要塞のように思えるから、陥落させたときの喜びは大きい。自分にこんな能力が眠っていたのかと、新たな自己を発見する。自分で自分が信じられるようになり、文字通り「自信」が生まれる。

つまずいても、自分を疑わず、自分を肯定し続けなければ、『700選』は攻略できない。「怠惰な自分」「凡ミスを犯す自分」「言いわけする自分」「くじけそうになる自分」を認め、それでも突き進んでいくポジティブな積極性がいる。その結果、成し遂げたときには、大きな自己愛に目覚め、自己肯定感に包まれる。自分で自分を賞賛したくなる。

自分で自分に誇りが持てるから、他者の承認は必要なくなる。大学に受かるとか、資格試験や検定試験に受かるとか、そんなことはどうでもよくなる。それらは他者が設定した尺度だから気にならなくなる。独自の価値基準を自ら創り出すことができる。だれでもおいそれと到達でる世界でないから、他者は侵入してこない。他者の干渉を許さない自分だけの揺るぎなき世界が持てるようになる。

だれもがやる平凡なことを、だれもがやるレベルでやっていたのでは、その他おおぜいに埋没する。だれもがやらないことを、だれもがやらないレベルまでやれば、その他おおぜいから抜け出せる。出る杭は打たれるが、出すぎた杭は打たれない。

『700選』の暗記は、人生をよりよく生きていく力を生む。だれも奪うことができない財産を、自らの力で手に入れることになる。

2016年05月25日