失敗をしない人は何も生み出さない

 

音読のすすめ(13)

●スピーチコンテスト

かつての教え子がお父さんになっている。そのお父さんの長女A子さんが中学生の英語スピーチコンテストに出た。

静まりかえった会場は緊張に包まれていた。ざっと見渡すと聴衆は100人ほど。土曜の午後のけだるさとはまるで違う空間があった。100人の前でスピーチとなるとだれでも緊張する。しかも英語だから、なおさら平静ではいられない。空気は張りつめていた。聴衆のなかには、父兄や引率の先生らしき人のほかに、ネイティブの姿も数名。出番を待つ身でもないのにドキドキしてくる。

本番の数日前、A子さんが下稽古のスピーチを聞かせてくれた。上手くまとまったいいスピーチだった。ただ、次々と演台に立つ生徒のスピーチは、どの子も上手かった。A子さんにはプレッシャーになるだろうと同情した。

A子さんが出たのは暗唱(recitation)の部。演題は「3匹の子ぶた」(Three little bigs)。規定の時間は3分以上、4分以内とある。

演台に向うA子さんの足取りはしっかりしていた。出だしはゆっくりと落ち着いている。マイクなしだが、声量は会場の広さに負けないボリュームがあった。リハーサルで聞いたときよりも上達している。あれからさらに練習を重ねたのだろう。中盤から後半にかけても、これといったミスもなくエンディングを迎えた。

●「あと少し」が危ない

だが、無事に終えそうに思えたその瞬間、A子さんの声が止んだ。とつぜん次に続く言葉が出てこなくなったのだ。静寂が続く。1秒、2秒、3秒……。A子さんの沈黙は会場を凍らせた。《だれも助けてくれない、頼れるのは自分だけ、がんばれ》――心のなかでエールを送った。

A子さんが言葉に詰まった箇所は、ラストのわずか5ワード、”……and was boiled to death.”「そして(オオカミは)煮えて死んでしまった」だった。

A子さんがこう考えたとしても不思議はない。《やれやれ、無事にここまできた。あとは最後の数ワードを残すのみ。ようやくこの重圧から解放される》――集中力が途切れたのは、そんな思いが頭をよぎった一瞬かもしれない。

数秒の沈黙のあと、A子さんのチャレンジが始まった。十数ワード前にさかのぼって再トライ。フレーズの流れを作って、なんとか態勢を立て直そうとする。しかし、いったん消えてしまった言葉はすんなりとは戻らなかった。《もう一度やるしかない、打開できるのは自分しかいない》 二度目の言い直しで、A子さんは自力でこの苦境を乗り切った。会場全体が安堵したように見えた。

一瞬の油断が招いたハプニングは、A子さんのすばやい機転で事なきを得た。ドラマはいつも予期せぬかたちで起こる。緊張の糸がゆるんだときが危ない。

『徒然草』のなかに「高名の木登り」の話がある。木登りの名人が言う。「木の高いところで枝を切っている人は自分でも気をつけている。こちらから注意することはない。その人が飛び降りても平気な高さまできたときに、気をつけて下りろ、と声をかける。怪我(ケガ)は安全になったところで起こる」と。――『徒然草』(吉田兼好)・第109段・「高名の木登り」――

●失敗をしない人は何も生み出さない

どれぐらい練習を積んだかA子さんに聞いてみた。491回読んだという。「3匹の子ぶた」の原稿を見ると、ウラには「正」の字がずらっと並んでいる。私のアドバイスにしたがって回数が書き込まれていた。レコーディング(記録すること)は、継続するうえで欠かせない。積み上げてきたものを、目で見てわかるかたちで残しておくと強い味方になる。刻んできた数字は、挫折しそうになる心を常に奮い立たせてくれる。

原稿の語数は343ワード。つまずいたのは最後の5ワード。全体の1.5%に過ぎない。491回も読めば、暗記しようと思わなくても暗記してしまう。それでもミスは起こる。500回練習しても、1000回練習しても、それでもミスは起こるだろう。失敗を犯すのは人の常であり、逃れることはできない。大事なのは失敗したときそれにどう立ち向かうかであって、失敗を犯さないことではない。

A子さんが、《私には無理》と尻込みしていたら、重圧でつぶされそうになることもなかった。苦境に立たされることもなかった。そしてそれを乗り越える体験もなかった。受賞は逃したが、果敢にチャレンジしたことで、生涯でそう何度もあるとは思えないほど大きなものを、A子さんは手にした。

英語にこんなことわざがある。He who makes no mistakes makes nothing.「失敗をしない人は何も生み出さない」

2015年10月02日