音読のすすめ (5)
●音読は必ず上達する
音読に充てる時間は、私の場合は1日20分である。20分の音読を日課にして、もう何十年にもなる。当たり前のことだが、音読は、読めば読むほどスムーズに読めるようになる。回数を重ねるにつれて、読むのがヘタになることは決してない。読めば読むほどドンドン上手くなる。
それは、いま練習で読んでいる英文を読むのが上手くなるという意味だけではなく、はじめて目にする英文でもスムーズに読めるようになるということである。
1回目よりは2回目、2回目よりは3回目、と確実に上手く読める。読んでいるうちにますます快適に読めるようになる。心地よさに浸っていると、20分はあっという間に経つ。気がつくと20分の倍の40分以上が経っていることもある。
音読は、マインド(頭)の部分はあまり使わないが、フィジカル(身体的)にはかなり疲れる。声を出すことで、舌、ノド、唇といった発話器官を総動員している。あまり長時間続けると、しゃべるのがおっくうになるほど疲れるものである。長年の経験から、どんなに調子がよくても、音読時間は1日20分までにしている。
「まだやれる」「もう少しやりたい」と感じても、きっぱりと打ち切るのがコツだ。もの足りなさを感じるところで切り上げた方が、結局は長続きする。
音読は、今日1日だけで終わるものではない。あすも、あさっても続く。完成形はないから永遠に続く。急に思い立って、1度に1時間も2時間もやるものではない。後を引くぐらいの余韻を残しておいたほうが、翌日もやりたいという意欲につながる。日々のルーティンワークとして生活のなかに組み込むと長続きする。
●18分だけ集中してみる
20分の音読に関連して、『18分集中法』(菅野仁著・ちくま新書)が参考になる。「18分集中法」とは、タイマーを用いて、とりあえず18分だけ集中して作業に取り組もうという考え方だ。具体的で実践的でシンプルなのでだれでも実行できる。
「20分」は、中途半端で小間切れの時間だが、「18分」は、さらに中途半端だ。15分よりも3分長いし、20分には2分足りない。このようにどうしようもない中途半端な時間設定が、アクションを起こすエネルギーを生む。中途半端だからこそ行動を起こす引き金になる。
人間には空白を埋めたいという欲求がある。「1口かじったリンゴ」と「丸ごとのリンゴ」があれば、「1口かじったリンゴ」の方に注意は向く。人間は足りないものや欠けているものが気になってしかたがないのだ。「なぜかじったのだろう?」「誰がかじったのだろう?」「なぜ1口なのだろう?」
スーパーやコンビニなどで見かける198円という表示も、たんに200円を切っているというだけではなく、200円に2円足りないという「中途ハンパ感」が、買い物客の気を引くのだ。
18分は中途半端なようで、まとまれば切りのいい時間になる。3セットで54分だから1時間弱だ。5セットなら90分だから1時間半である。
「18分くらいならやってみよう」「18分だけならやってみよう」と、軽い気持ちで始められる。それに、「18分」なら、生活のあらゆる場面で、ちょっとした工夫で生み出せる。「18分」を常に意識するだけで、いたるところに「18分」がころがっているのがわかる。
「食事の時間にはまだ間がある」「出かけるには少し早い」「気になるテレビが始まるのはもうちょっと先だ」など。
私は、この「18分集中法」を、音読に限らず、さまざまなやっかいな作業を行う場面で利用している。「やりたくない雑用を片づけるとき」「読みにくい本を読むとき」「いっこうにはかどらない文章を書くとき」
●台所用品がハイテク・アイテムに
「18分」は半端な数字である。計測するにはキッチン・タイマーが便利だ。家電量販店で安価で買える。わずか数百円だ。たった数百円の買い物で、時間管理の面からいえば、値段の何十倍もの利益を生む。仕事や作業をすすめるうえでの必須アイテムだ。台所用品を書斎に持ち込むだけでオフィス革命が起こる。
タイマーを18分に設定し、スタート・ボタンを押すと、容赦なくカウント・ダウンが始まる。残り時間がデジタル表示され、いやでも集中力が高まる。タイマーが作動中に、やむを得ず中断せざるを得ないときもある。電話がかかってきたり、家人に呼ばれたりしたときだ。そんなときはストップ・ボタンを押して、タイマーの作動を保留にしておく。たとえば残り時間が「4分32秒」だったとする。
「4分32秒」は、中途半端のなかの中途半端だ。ものすごく切りの悪い時間だから、残りを片づけたい気持ちがくすぶり続ける。早く決着をつけたくてたまらなくなる。とにかく火をつけないことには収まりがつかない。行動を再開したいというエネルギーが圧縮されるので、ふいの中断であっても不快にはならない。中断がむしろ喜ばしいことにさえ思えてくる。
設定した18分が経つと、ピッピッピッと終了音がせわしなく鳴る。ノリノリで作業をやっているときは、再度スタート・ボタンを押し、そのまま継続することもあるが、たいていは終了したらひと息入れるようにしている。
そのひと息は、1分であったり、10分であったり、1時間のこともある。ときにはひと息のはずが、その日はもう何もしないこともある。要するに休憩時間の長さは自由だということだ。「休む時間」まで「何分」という枠に入れてしまうと、そうとう窮屈に感じるので、あえてフレキシブルにしている。大切なのは、作業時間の長さではなく、「とにかく始める」ということだから、これで十分である。
●「春になって桜の花が」の続きを書いてはいけない
文章を書いている途中で「18分」が終了することがある。たとえば、「春になって桜の花が」まで書いたところで終了音がなったとする。そのときはそこで止めるようにしている。「春になって桜の花が」のあとに「咲きました」と続けるのは簡単だが、あえて書かずに、文章を「宙ぶらりん」にしておくのだ。
切りのいいところまで書いてから、「休み」を入れると、再び書こうとしたとき、次が書けなくなる。区切りのいいところまで書いてしまうと、「休み」で、頭が完全にリセットされてしまうからだ。そうならないために、「春になって桜の花が」で止めて、意図的に「居心地の悪さ」を演出するのだ。
「休み」のあとで、書きかけの文章にもどると、当然、「咲きました」は簡単に書ける。まるでタイムスリップしたかのように、中断していた思考の流れがよみがえってくる。
教科書の音読で1つのセクションを7回まで読んだところで、「18分」が終了したとする。私の場合は、10回を1ユニットとして、「正」の字の1画を書くようにしている。したがって、7回では1ユニットに3回分足りない。そんなときは、「18分」をタイムオーバーしても、3回分を追加して読み、切りのいいユニットにしている。
●音読で生活のギア・チエンジを
音読は、頭脳活動というよりも身体活動だから、何も考える必要がない。取っつきやすいし、取り組みやすい。音読に準備はいらない。18分にセットしたキッチン・タイマーのボタンをピッと押しさえすれば、活動はスタートする。あとは無心になって読むだけである。
フランスの哲学者アランは、『幸福論』(岩波文庫)のなかの「始めている仕事」の章で、こう言っている。「刺繍もはじめの幾針かはあまり楽しくもない。しかし、縫い進むにつれて、その楽しみが加速度的に倍加する。何ひとつ期待することなく始めなければならない。期待がやってくるのは、仕事がはかどって、状況が進展してからである。仕事に即して現実の計画が生まれてくる。ミケランジェロは頭の中であのような形象をすべて考えた後、描いたとは、ぼくには断じて思えない」
音読するのにウォーミングアップはいらない。音読そのものがウォーミングアップなのだ。音読によって充実感や満足感が生まれるので、次の作業に移るのが容易になる。1日の始まりに音読を組み入れるのも合理的だ。「静」から「動」へと生活のギア・チエンジをするのに、音読はいいスターターになる。
私は授業を始める前に音読をすることにしている。習慣というより儀式のようなものに近い。授業は毎日あるので忘れたり欠かすことがない。音読によって、滑舌はよくなり、気力が充実するので、授業の準備としては、最適なウォーミングアップである。
2014年02月24日