『英標』の要約で「書く力」がつく

 

要約のすすめ(その2)

 

●「こだわり」が見えてくる

『英標』の文章は評論文が多いので、漢字の使用量が多そうに思う。しかし実際は意外と少ない。漢字が多い文章は、全体が黒っぽくなる。内容が難解で、そのうえ漢字が多くて黒っぽいと、よけいに読みにくい。著者は訳出するときに、意図的に漢字を減らしているように思われる。

たとえば、「座る」→「すわる」
「一瞥」→「一べつ」
「我々」→「われわれ」

誰かにとってどうでもいいことでも、誰かにとってはどうでもよくないものがある。要約文を書いていて、こんな微細な箇所が目にとまった。

『英標』(例題96)で、coiled lines ということばが出てくる。文脈からcoiled lines はcoiled fishing linesであることは容易にわかる。fishing linesは辞書的には「つり糸」とある。fishing linesは、通常の訳語としては「つり糸」でしかありえない。しかし『英標』では「釣綱」と訳されている。なぜ「つり糸」ではなく、「釣綱」といういわば造語のような訳語が当てられているのか。

話の筋はこうである。「少年は浜辺に行き、老人を手伝い、coiled linesを運んでやる」とある。

coiled lines (coiled fishing lines)を、「巻かれたつり糸」と訳したのでは、つじつまが合わなくなる。なぜなら「つり糸」からくるイメージは、片手でつまんで運べる大きさや量でしかないからだ。少年がわざわざ運ぶのを手伝うほどの物ではない。

この箇所は、新潮文庫『老人と海』(福田恆存訳)では、「巻綱」と訳されている。「釣綱」も「巻綱」もともにプロの訳出のすごみを感じる。こうした精緻な訳出は、ことばに対する並々ならぬ誠実さからくるのだろう。

『老人と海』を書いたヘミングウェイに、次の文章がある。氷山理論(Iceberg Theory)とか省略理論(Theory of Omission)と呼ばれている一節である。(『英標』練習問題【17】)

The dignity of movement of an iceberg is due to only one-eighth of it being above water.
「氷山の動きに威厳があるのは、その8分の1しか表面に出ていないからである」

『英標』が半世紀以上にわたって、英文読解のいわば金字塔として読み継がれているのは、こうした一読しただけでは気づかない隠れた威厳のようなものを行間から醸し出しているからかもしれない。

●要約文の長さ

『英標』を要約する場合、何字に要約したらいいかと質問されたことがある。入試問題では、日本語なら100字、英文なら100語でまとめよという指示があるが、自分で要約する場合は、何字にまとめるかは個人の自由である。要は、読んだ文章の内容が、自分の頭にすんなりと入る長さであり、自分の言葉で言える長さである。

要約文は自己紹介と同じだと考えればいい。自己紹介は、「自分」についての要約のこと。3秒の自己紹介もあれば、30秒や、3分のこともある。3秒の自己紹介なら名前だけになるだろうし、30秒なら名前と趣味になるかもしれない。3分の自己紹介なら、将来の夢まで語るかもしれない。要約文も、10字ならこう、50字ならこう、100字ならこうと、ケース・バイ・ケースである。新聞記事の「見出し」をイメージしてもいい。まず「大見出し」があり、「中見出し」「小見出し」と続き「本文」がある。

「要約」ができるということは、その反対の「詳述」もできるということである。要約では、修飾語を削ったり、比喩やたとえの部分を省いたりする。しかし逆に、修飾語や比喩を用いた方がいい場合がある。その方が相手に伝わりやすく、わかりやすくなるからである。

そんなとき、「削る経験」は、「つけ足す経験」に活かすことができる。「拡大から収縮」と「収縮から拡大」は、逆方向の行為だから、双方向の作業が自在にできるようになる。100字を10字に減らすことができれば、10字を100字にふくらますこともできるようになる。要約の練習によって、書くという行為の可動域が拡がり、表現形式に幅ができる。

要約力はプレゼンテーションにも当てはまる。自分で「自分」を要約するのと同じように、自分が熟知している内容を相手に伝えるのも要約力である。相手がその分野の素人なら、ひとことでかいつまんで説明した方がわかりやすいし、相手が専門家なら、そのレベルに応じて詳述した方が中身が濃くなり説得力がうまれる。

●教室の空気はまるで違う

教室で生徒が『英標』の要約に取り組んでいるのを見て感じたことがある。要約文を書いているときと、マーク・シートに解答しているときとでは、教室の空気がまるで違う。前者はピーンと張りつめているのに対して、後者はドロンとよどんでいる。明らかに生徒の集中の度合いが違う。もし脳波を調べる装置があれば、脳が活発に活動しているのが計測できるだろう。

センター試験のようなマーク・シートでは、与えられた選択肢から答えを選べばいいのだから気楽なものだ。雰囲気やフィーリングで解答できるのがマーク・シートである。しかし、要約文は頭を絞らなければ1行たりとも書けない。ことばに対して真剣に向き合わなければばらない。「ああでもない、こうでもない」「ああ書こうか、こう書こうか」と頭はフル回転する。著者の思考の中心がどこにあるかをさぐりながら、単語と単語をどう組み合わせるか、文と文をどうつなぐかを考えなければ要約文は書けない。いわば知的な格闘を行っている。

要約文を書くには、英文と和文を照らし合わせなければならない。そのため頭と眼は、英文と和文のあいだを何度も往き来する。速く読むこともあれば、ゆっくり一文字ずつ追うこともある。速読と遅読のくり返しだ。英文と和文の両言語で、ラピッド・リーディングとスロー・リーディングを織り交ぜるわけだから、たいへんな脳トレである。文章全体を見渡しながら細部にも気を配る。意識は、緊張感と集中力を伴って、マクロとミクロのあいだをたえず往復する。

●無意識に要約するようになる

『英標』で要約の訓練を積んでいくと、「読む」という行為の質が変わる。ものを読むということは、映像として文字を見ることではないし、読んだ本の読書リストをつくることでもない。内容を理解し納得しコンパクトに頭に収めることにある。

「要約するんだ」という目的意識をもって読んでいると、どんな文章を読んでも要約したくなるし、無意識に要約していることに気づく。新聞を読んでも本を読んでも、頭のどこかで、「要するに……」とまとめるようになる。これこそがものを読んだことの証になる。

 2013年05月07日