─ センター試験の廃止を (1) ─
●新聞投稿
今年も大学入試センター試験が終わった。個性化が声高に求められている時代に、なぜ画一的な統一試験なのか。
全国一斉に、五十数万人もの若者が同一時刻に、同一試験に臨むという極めて異様な風景だ。
受験生を教えていて、個々の学生の実力は日常の授業で把握しているが、センター試験の結果とは必ずしも一致しない。
マークシート方式は、コンピュータ処理をする採点者側のご都合主義でしかない。最高学府の志願者に、塗り絵もどきの択一試験ではあまりにも安易だ。
国公立大学はそれぞれ二次試験を課すが、それなら、「我が大学はこれこれしかじかの学力を有する者を望む」と、最初から堂々と独自の入試で自己主張すれば済むことだ。
「大学入試センター」では、センター試験の目的は、「高校の基礎的な学習の判定……」と謳っているが、そもそも、高校の基礎学力は卒業の時点で、高校側が判定すべき領域のはず。行政改革が叫ばれるなか、こうした国費のムダ遣いとなる制度の廃止を強く望む。
(2005年1月・朝日新聞声欄投稿・非掲載)
●国益を損なう
センター試験のためなどといって、平易な英文ばかりを読んでいて、一体いつになったら難解な英文が読めるようになるというのだろうか。大学で英文解釈や英文法の講義などないから、受験時代の精読の技術が、そのまま大学生や社会人の英文読解の技量ということになる。
「読み書きはともかく、会話はちょっと……」は言葉のアヤでしかない。言い回しを変えたごまかしにすぎない。読み書きも英会話も両方ともできないのが現状である。
英語で書かれた化学の文献を読み間違えたら、実験で事故を起こす。外国の企業との契約書の理解が、たぶんこんな意味だろうでは、損害をこうむる。外交文書を中途半端に読んでいては国益を損なう。
●ビッグ・ビジネス
元々は国公立大学の一次試験だったセンター試験を、いまでは私立大学の8割が利用している。企業に置き換えれば、新入社員の採用試験を第三者に丸投げしているようなものだ。まっとうな経営者のやることではない。会社の理念に見合う社員は、自らの手でリクルートするのが経営者だ。
センター試験の受験料は18,000円。50万人が受験すれば、18,000円×50万人で、90億円が動くビッグ・ビジネスである。リスニングで使用されるICプレーヤーの導入に際しては、大手電機メーカーが、熾烈なシェアー争いをしたという話もある。1台2,000円とすれば、50万台で10億円だ。
センター試験の経費や人件費の内訳がどうなっているのかは知るよしもないが、こんな無用な試験に早く「事業仕分け」のメスが入ることを願っている。
●点数とは…?
こんなことも付け加えておきたい。英語の配点で、発音問題は2点、長文問題の内容真偽は6点。会話重視を標榜するなら、発音は10点、内容真偽は1点という配点があってもおかしくない。配点など人によってどうにでも変わる恣意的なものなのだ。
さらに、英語160点、数学140点、国語150点なら、三教科の合計は450点になる。しかし、こんな異質なものを足してどんな意味があるというのか。かりに鉛筆は3点、消しゴムは4点、定規は5点だとすると、合計は12点、平均点は4点。この4点はいったい何を指すのか。人間の能力を、数値化したり、その数字を加工したりすればするほど、ナマ身の実体とはかけ離れていく。
テレビでこんな番組(探偵ナイト・スクープ)があった。三人が、水泳と暗算の二種目の合計タイムを競い合うというもの。一人は水泳の元日本記録保持者。もう一人は暗算の名人。さらにもう一人は水泳と暗算がそこそこの素人。水泳は一流だが暗算はダメと、水泳はダメだが暗算はプロと、水泳も暗算もそこそこという三人の競争だ。バカバカしくて大笑いした。
2010年5月31日改稿