音読のすすめ (14)
●原点はどこに
「量質転化」について、ヘーゲルは原文ではどう説明しているのだろう。県立図書館で、ヘーゲルとその関連図書を何冊か手にとってみた。だが、ヘーゲルの膨大な、しかも読みづらい著作のなかから、それはおいそれとは見つからなかった。
たまたま友人が市民大学講座で「哲学」を受講していた。その友人が、講師の大学教授に、「量質転化」はヘーゲルのどの著作のどこに書いてあるかを聞いてくれた。後日、友人を介して、『小論理学』(岩波文庫・松村一人訳)P325―P327のなかにあると教えてくれた。
特にヘーゲルを専門としていなくても、特定の概念の出処がわかるのだから、やはり専門家はすごい。
『小論理学』のなかから、ヘーゲルが「量質転化」について語っている箇所を抜粋しておこう。「量質転化」の原点にふれておけば、音読を続けていくうえで、理論面での支えとなるだろう。
―原文―
例えば、水の温度はまずその液体的流動性にたいして無関係であるが、しかしこの液状の水の温度の増減が或る点に達すると、この凝集状態は質的に変化し、水は一方では水蒸気に、他方では氷に変わる。一般に量的変化が起こる場合、それは最初それ以上の意味は少しも持たないようにみえる。しかしその背後には別なものがひそんでいるのであって、一見何でもなくみえる量の変化は、質的なものを捕らえる言わば狡智である。
ギリシャ人はすでに、ここにみられるようなアンチノミーをさまざまな衣裳のもとに例示している。例えば一粒の小麦が小麦の山をつくるかとか、馬のしっぽから一本の毛を抜けばそれは禿げたしっぽであるか、といういうな問がそれである。こういう問をかけられると、人はまず、量の本性が有と無関係で外的な規定性であると考えて、それを否定したくなるであろう。
しかし次に人は、こうした無関心な増減にもその限界があって、小麦を一粒ずつ加えていき、毛を一本ずつ抜いていけば、ついに小麦の山ができ、禿げたしっぽが生じる点に達する、ということを認めざるをえないであろう。
元気に歩んでいる驢馬の荷を、とうとう驢馬が担いきれぬ重荷のためにたおれるまで、一オンスずつ増していったという百姓の話も、同じである。もしこうした例え話を空論的な無駄話と言う人があれば、それは大きな間違いである。なぜなら、ここには、それを知ることが実践および特に倫理にたいして非常に重要な意義を持っている思想が含まれているからである。
例えば、我々の支出のことを考えてみると、そこにはまず一定の余地があってその範囲内では支出の多少は問題ではないが、しかしもし、それがそのときどきの個人的事情によって定められた程度以上あるいは以下になると、先に考察した水の温度の相違と同じような仕方で、限度の質的性質があらわれ、ほんの今までいい家政と思われていたものがけちあるいは贅沢となる。
――政治についても同じことが言える。或る国家の憲法を考えてみると、それはその領土の広さ、人口の数、その他量的な諸規定に依存していないと同時に、またそれらに依存しているとも考えられなければならない。
例えば、千平方マイルの領土と四万人の人口を持つ国を考えてみると、数平方マイルの領土や数千の人口の増減がその国の憲法になんら根本的な影響を及ぼしえないことは、誰も躊躇なく認めるであろう。
しかし他方また、もし国が次第に拡大あるいは縮小していけば、他の事情は全く別としても、ただこの量的変化のみによって憲法の質が変化せずにいない点がついにやってくる、ということもみのがすことはできない。スイスの小さい一州の憲法は大帝国にむかない。ローマ共和国の憲法がドイツの小さい帝国直轄都市に移されたときも、同じように不適当であった。
(1118字)
●小中学生でもわかる
この原文を1/3に縮約してみた。「縮約文」は、要約したものではない。原文から、単語や句読点を削っただけで、原文で使われている語彙、語順、文体は変えていない。つけ加えることもしていない。
1118字の原文を374字まで削ると、ほぼピッタリ1/3になる。374÷1118 = 0.33。
縮約してみると、「量質転化」の骨子が鮮明に浮かび上がってきた。一般に難解だといわれているヘーゲルだが、その論旨は、小中学生が読んでもわかるほど明解なものになっている。
―縮約文―
水温が或る点に達すると、水蒸気に、他方では氷に変わる。量的変化が起こる場合、それは最初それ以上の意味は持たないようにみえる。
一粒の小麦が小麦の山をつくるかとか、馬のしっぽから一本の毛を抜けばそれは禿げたしっぽであるか。こういう問をかけられると、人はそれを否定したくなる。
しかし、こうした増減にも限界があって、小麦を一粒ずつ加えていき、毛を一本ずつ抜いていけば、ついに小麦の山ができ、禿げたしっぽが生じる。
ここにそれを知ることが実践にたいして非常に重要な意義を持っている思想が含まれている。
我々の支出のことを考えると、それが定められた程度以上あるいは以下になると、限度の質的性質があらわれ、いい家政と思われていたものがけちあるいは贅沢となる。
国が次第に拡大あるいは縮小していけば、この量的変化によって憲法の質が変化せずにいない点がついにやってくる。
(374字)
●英語版では
このように縮約しても、文章全体の整合性が崩れず、文体にもズレが生じないということは、ヘーゲルの原文はもとより、翻訳が精緻でよほどしっかりしてるからだろう。
『小論理学』の英語版、“The Science of Logic”(Translated by William Wallace)P130 ― P131と照らし合わせてみよう。
―原文―
Thus the temperature of water is, in the first place, a point of no consequence in respect of its liquidity: still with the increase of diminution of the temperature of the liquid water, there comes a point where this state of cohesion suffers a qualitative change, and the water is converted into steam or ice. A quantitative change takes place, apparently without any further significance: but there is something lurking behind, and a seemingly innocent change of quantity acts as a kind of snare, to catch hold of the quality.
The antinomy of Measure which this implies was exemplified under more than one garb among the Greeks. It was asked, for example, whether a single grain makes a heap of wheat, or whether it makes a bald-tail to tear out a single hair from the horse’s tail. At first, no doubt, looking at the nature of quantity as an indifferent and external character of being, we are disposed to answer these questions in the negative.
And yet, as we must admit, this indifferent increase and diminution has its limit: a point is finally reached, where a single additional grain makes a heap of wheat; and the bald-tail is produced, if we continue plucking out single hairs.
These examples find a parallel in the story of the peasant who, as his ass trudged cheerfully along, went on adding ounce after ounce to its load, till at length it sunk under the unendurable burden. It would be a mistake to treat these examples as pedantic futility; they really turn on thoughts, an acquaintance with which is of great importance in practical life, especially in ethics.
Thus in the matter of expenditure, there is a certain latitude within which a more or less does not matter; but when the Measure, imposed by the individual circumstances of the special case, is exceeded on the one side or the other, the qualitative nature of Measure (as in the above examples of the different temperature of water) makes itself felt, and a course, which a moment before was held good economy, turns into avarice or prodigality.
The same principles may be applied in politics, when the constitution of a state has to be looked at as independent of, no less than as dependent on, the extent of its territory, the number of its inhabitants, and other quantitative points of the same kind.
If we look, e.g. at a state with a territory of ten thousand square miles and a population of four millions we should, without hesitation, admit that a few square miles of land or a few thousand inhabitants more or less could exercise no essential influence on the character of its constitution.
But on the other hand, we must not forget that by the continual increase or diminishing of a state, we finally get to a point where, apart from all other circumstances, this quantitative alteration alone necessarily draws with it an alteration in the quality of the constitution.
The constitution of a little Swiss canton does not suit a great kingdom; and, similarly, the constitution of the Roman republic was unsuitable when transferred to the small imperial towns of Germany.
(531 words)
英語版の方も、和文と同様に縮約してみた。
―縮約文―
With the increase of the temperature of the water, there comes a point where the water is converted into steam or ice. A quantitative change takes place, apparently without any further significance.
It was asked whether a single grain makes a heap of wheat, or whether it makes a bald-tail to tear out a single hair from the horse’s tail. We are disposed to answer these questions in the negative.
And yet, this increase and diminution has its limit: a single additional grain makes a heap of wheat; and the bald-tail is produced, if we continue plucking out single hairs.
These examples turn on thoughts, an acquaintance with which is of great importance in practical life.
In the matter of expenditure, when the Measure is exceeded on the one side or the other, the qualitative nature of Measure makes itself felt, and good economy turns into avarice or prodigality.
By the continual increase or diminishing of a state, we finally get to a point where his quantitative alteration draws an alteration in the quality of the constitution.
(177 words)
●みごとな翻訳
「英文縮約」は、先に縮約した「和文縮約」をもとに、その和文に対応するように英文を縮約していった。1/3という縮約率は気にぜずに、「和文縮約」に正確に一致する英文になるように単語を削っていった。「和文縮約」のときと同じように、「英文縮約」でも、単語を取り替えたり、順序を変えたり、加えたりはしていない。
縮約してみて驚いたことがある。単語を削っただけなのだが、できあがった「英文縮約」の語数は177語。原文は531語。こちらも「和文縮約」と同様、その縮約率はピッタリ1/3になっていた。177÷531 = 0.33。
ヘーゲルの原書は、当然ドイツ語で書かれている。ドイツ語から日本語への翻訳も、ドイツ語から英語への翻訳も、縮約してみると、両言語の「縮約文」がピッタリ重なり合っていた。
このことは、『小論理学』(松村一人訳)も、”The Science of Logic”(William Wallace訳)もともに、原文に忠実で精巧な訳であることを物語っている。哲学の世界の厳密な一面をかいま見た気がした。
2015年10月15日