かつうら英語塾が目指すもの
●思い込みで見ている
つぎの図は何に見えるでしょうか?
左端には、縦になった帽子が見えます。右の方には、下向きの矢印が見えます。いや、それとも横向きのウサギが見えるでしょうか?
私たちは、普段インクで書かれた黒い文字を見ています。白い文字には慣れていません。そのため文字が白いと、それが文字だとはなかなか気づきません。白黒を逆転させるとどうでしょう。白抜きの文字が浮かんでくるのではないでしょうか?
違った視点で見れば、違ったものが見えます。図形に限らず、文章を理解するうえでも同じようなことが起こります。
●なにがなんだかわからない
次の文は、「道路交通法第三章第六節第三十六条」です。とても長い文です。
車両等は、交通整理の行なわれていない交差点においては、その通行している道路が優先道路である場合を除き、交差道路が優先道路であるとき、又はその通行している道路の幅員よりも交差道路の幅員が明らかに広いものであるときは当該交差道路を通行する車両等の進行妨害をしてはならない。
上のような文は、一読しただけでは内容が飲み込めません。整理すると次のようになります。
車両等は、
(……においては、)
(……である場合を除き、)
(……であるとき、)又は
(……であるときは)
進行妨害をしてはならない。
条件となる箇所を( )でくくっただけで、中心となる箇所がはっきりします。ずいぶん読みやすくなったはずです。
●辞書を使っても読めない
では、次の英文の訳文はなぜ間違いなのでしょうか?
I don’t know what I said or even if I said anything.
私は何を言ったかわからないし、たとえ何かを言ったとしてもわからない。
辞書を使っても読めないものは読めません。英文解釈は、語い力を頼りにフィーリングで読むものではありません。英文の構造は、通常認識されている以上に論理的なのです。
●訳文を読んでもわからない
もう一つ例を引きます。かなりむずかしい英文です。
英文標準問題精講・例題74
Excursions into the literature of a foreign country much resemble our travels abroad. Sights that are taken for granted by the inhabitants seem to us astonishing; however well we seemed to know the language at home, it sounds differently on the lips of those who have spoken it from birth; above all, in our desire to get at the heart of the country we seek out whatever it may be that is most unlike what we are used to, and declaring this to be the very essence of the French or American genius proceed to lavish upon it a credulous devotion, to build up upon it a structure of theory which may well amuse, annoy, or even momentarily enlighten those who are French or American by birth.
VIRGINIA WOOLF, The Moment
Sightsではじまる第二センテンスは、語数が100語を超えています。一般には、22語が一文の平均語数だといわれているので異常に長い文です。先に挙げた「道交法」の文と同じように、一読しただけでは、頭に入ってきません。いや、一読などとうていできないのが平均的な受験生です。
訳文:外国文学の園を逍遙することは外国旅行によく似ている。その国の住民なら何の奇もないと考えている眺めも、われわれの目には驚くべきものに見える。自国にいる時には、どんなによくその国のことばを知っているように思っていても、そのことばが生まれながらにしてそれを話してきた人たちの口の端にのぼると、ちがって聞こえてくる。特に、その真髄に触れようと望むあまり、平素慣れていることと最も似ていないものを、何でもかまわず捜し求め、これこそまさにフランス精神の真髄であるとか、アメリカ精神の精髄であると宣言して、その異質のものに惜しげもなく盲信的な熱意を傾けはじめ、それをもとにして、生まれつきのフランス人やアメリカ人ならば当然おもしろがったり、困ったり、一時的には啓蒙されたりさえするような理論の体系をでっちあげはじめるのである。
単語や熟語のストックがどんなにあろうとも歯がたちません。英文と訳文をつぶさに照らし合わせても、生半可な文法知識では、どこをどう訳しているのか、見当さえつかないでしょう。真面目に理解しようと、同書の解説部分 (P179) を丹念に読んでも、「that is most unlike はitにかかる形容詞節」 などと強引な説明に出会っては、頭をかかえこんでしまうでしょう。
英文と訳文のあいだにはとてつもない距離があります。この距離は、相当な知的体力と気力がなければ越えられません。通常の自己学習では埋めようなのないギャップなのです。
●適切な指導さえ受ければ
都内の予備校を皮切りに、三十数年に渡って、さまざまな受験生を教えてきました。その経験から言えるのは、妥当な指導訓練さえ受ければ、驚くほど短期間で英文が正確に読めるようになるということです。高校生活が3年あるからといって、3年かかると考えるのは何の根拠もない思い込みに過ぎません。(『体験記』参照)
白黒を逆転させるだけで「だまし絵」が見えるようになります。( )でくくるだけで、法律の文が読みやすくなります。それは、限られた人だけが習得できる特殊なスキルではありません。系統だったステップを踏めば、だれでも読めるようになります。
英文の精読は、母国語とは異なる言語の世界に足を踏み入れるわけですから、思いもよらない発見と気づきが起こります。無秩序な単語の集まりにしか見えなかった平板な英文が、みごとに組み立てられた建造物に見えるようになります。その美しい立体構造に、うっとりするかも知れません。ときには感動すら覚えるかも知れません。学ぶことの喜びがここにあります。
さらに、英語はきわめて論理的な言語ですから、英語が読めるようになると、論理的な思考が身につき、日本語力が鍛えられます。英語力と日本語力は、お互いがお互いを補完し、干渉しながらともに成長していく相関関係にあります。ゲーテの言う、「外国語を知らないものは母国語をも知らない」を実感することになります。
英文解釈では、思考のプロセスが常に問い返されます。複雑な英文になれば、何段階にもわたって思考を重ねていく必要があります。息切れしてどこかで手を抜いたり、粗雑な思考を巡らしていては読み通せません。こうした言語訓練をとおして、無意識のうちに論理的な日本語を使うようになります。
それは、あなたの日常の言語生活に影響し、ひいては、ものの見方や考え方に大きなパラダイム・シフト paradigm shift (価値転換) を起こします。あなたの思考回路に革命が起こるということです。これこそが、かつうら英語塾が指向する英語学習のその先にあるものです。
2010年3月22日 改稿