履物をそろえる
通信受講生 T・K(還暦 在大分県)
●履物のこと
私は、二十七歳の頃から、「履物をそろえる」ようになりました。最初は、意識して履物をそろえていました。家に帰って、玄関で一度立ち止まり、脱いだ履物の向きをそろえていました。
ただそれだけのことです。深い意味があったわけではありません。誰かから、言われたわけでもありません。どこかで教わった記憶もありません。
忘れてしまうこともありました。急いでいるときは、面倒だな、と感じることもありました。それでも、思い出したときには、そろえるようにしていました。
続けているうちに、「そろえよう」と考える前に、手が動くようになりました。意識していないのに、気づくと履物がそろっている状態になっていました。
履物がきちんとそろっていると、こころが落ち着くような感じになります。理由は、分かりません。ただ、そういう感じがする、というだけでした。
履物をそろえたからといって、何か問題が解決したわけではありません。人生が大きく変わったわけでもありません。ただ、外に向いていた意識が、内側に戻ってきたような感じです。
振り返ると、こころを整えようとして履物をそろえていたのではなく、履物をそろえているうちに、こころのほうが勝手に、元の位置に戻っていただと思います。
●英語のこと
英語にも、同じようなことが起きていたのではないかと思います。
私は、とにかく分かろうとしていました。「覚えなければ」「正しく読まなければ」「意味をすぐにつかまなければ」、という気持ちが強かったと思います。
英語に向かうたびに、どこか落ち着かず、前のめりになっていました。「早く進まなければ」「遅れてはいけない」「何かが足りないのでは」。そんな考えが常にありました。
授業で、ある英文を扱ったときのことです。
Much people read in papers is not true.
「多くの人々が……、新聞を読む……」
muchはpeopleを修飾するのではない。「多くの人々」は、many people。
read in papersは、「新聞を読む」ではない。「新聞を読む」は、read papers。
「多くの人々が……、新聞を読む……」
この文について、ある生徒の訳を、先生がすぐに否定しました。その瞬間、私の中で、強い衝撃が走りました。
頭のてっぺんから足先まで、一気に電気が走ったような感覚です。
というのも、その生徒と、まったく同じ訳を、私自身も作っていたからです。
正しい訳は、「人々が新聞で読む多くのことは真実ではない」
そのとき初めて、問題は知識や努力の量ではないのだと分かりました。
つまり語と語の関係を、構造を見ていなかったということです。詳しい説明がなくても、そのことは一瞬で分かりました。雷が落ちた、という表現が一番近いと思います。
それ以降、英語に対する向き合い方が変わりました。分かろうとする前に、意味を探す前に、構造を見る。評価や判断を入れる前に、そこにある形を見る。
すぐに訳したくなったり、意味を決めてしまいたくなったりしました。そのたびに、少しだけ手を止める、ということを繰り返しました。そうしているうちに、無理に力を入れなくなっていきました。「やろう」と思わなくても、目が自然に形を追うようになっていったのです。
理解しようとしていないのに、「主」と「従」が分かれ、「中心」と「周辺」が分かれ、文全体が自然に立ち上がってくる。英語は、追いかけるものでも、自然にそろっていくものなのだと感じるようになりました。
私は、英語を身につけようとして、これをしていたわけではありません。英語を正しい位置に置いたとき、理解のほうが勝手に、元の位置に戻ってきたのだと思います。それは、努力や根性の話ではなく、才能の話でもありません。特別な意味づけをする必要もないことでした。
履物をそろえるように、英語をそろえる。外がそろうと、内もそろう。それだけのことだと思います。
2026年2月13日
履物をそろえる
