移民の聴力と引き換えに読解力が奪われる
―大学入試共通テストを解いてみた―
この記事を読んでわかること
・うんざりするほど量が多い
・理解力を問うというのなら時間は無制限でいい
・AIのやることを人間に課すな
・「コミュニケーション英語」と「英語表現」はどう違う?
・霞が関文学
・日本語だけで暮らせる幸せな国
・文法問題が消えた
・英文法を知っていますか
・英語学習の半分はリスニング? そんなバカな!
・どんな検証が行われたのか
・英会話は日本語力
・リスニングは異様な緊張を強いる
・リスニングは何を測定しているのか
・オーラル・アプローチは移民のための言語理論
●うんざりするほど量が多い
まず、リーディング問題(全6問)について。文法問題は全くなくなり、すべて読解力を問う問題。英文のレベルは高1程度。特に文法知識を要するものや複雑な文構造のものは見当たらない。語彙も平易で、普通の受験生ならだれでも知っているレベル。
こう書くと簡単そうに聞こえるが、量の多さにはうんざりする。問題文にあたる英文の語数は3900語、設問と選択肢に使われている語数は1500語だから、総語数は約5400語になる。試験時間は80分。計算上は1分あたり67語のスピードだから速読でも何でもない。ゆっくり落ち着いて読めばいいことになる。
しかし、英文自体はすんなり読めても、設問に答えるとなると、かなり慌ただしく煩わしい。設問に答えようとするたびに、本文と設問を照らし合わせる必要があるから、何度もページをめくり直す。さらに、英文を読むのに苦労しなくても、解答するには、マークシートを注意深く塗りつぶさなければならない。実際に受験する受験生の身になれば、緊張感の中でそうとう時間に急かされるだろうと想像できる。
●理解力を問うというのなら時間は無制限でいい
なぜ、こうも慌ただしく大量の英文を読ませる必要があるのか。なぜじっくり腰を据えて読んではいけないのか。日常の読書でこんな煩わしい読み方を強いられる場面など思い浮かばない。
1冊の文庫本を読むのに、数時間で読む人もいれば10数時間の人もいる。私は数冊の本を併読するから、1冊を読み終えるのに何日もかかる。喫茶店、電車内、どこかの待合室と、読む場所が変われば、気分が変わり、読みたい本のジャンルも変わる。
試験会場で、一方的に、この文章をこれこれの時間内に読めと強要されても読書欲はわかない。仕方なく受験はするものの、2度と受けたいとは思わないのが人情。日本の大学生の勉強時間が極端に少ないのも(1日平均40分)、統一試験がトラウマとなって勉強は苦痛なものという刷り込みがあるからかもしれない。
こんなことを考える。もし試験時間が倍であれば、もし問題量が半分であれば、受験生はもっと落ち着いて受けられるのではないか。いっそのこと制限時間など設けず無制限にしてはどうか。受験生のプレッシャーは大幅に軽減するだろう。
30年ほど前に、通訳案内士の国家試験を受けたことがある。会場は京都大学。すり鉢状の大教室だった。30分ほどで300人いた受験生の大半が退室していった。時間いっぱいまで残っていたのは私を含めほんの数人だった。時間に急かされることのないのんびりした試験だったが、内容は「新渡戸稲造について英文で記せ」の類いだから、知らなければ手も足も出ない。
東京外国語大学大学院の入試問題でも、「音声学」の問題は、「人間の発話音が呼気音である理由を記せ」の1題のみ。時間はあっても知識がなければなすすべがない。
●AIのやることを人間に課すな
大相撲では両力士は呼吸が合うまで何度でも仕切り直しができる。囲碁や将棋では勝敗の判定を待たず、考え抜き自ら納得した時点で「投了」できる。日本の文化にはアナログ的な大らかさがある。受験も、時間を気にせずに納得がいくまで考えられるようにしてはどうか。共通テストの目的は、理解力を問うのであって処理の速さを競うものではないはず。
高校時代に、どんな本に感動したか、部活でどんな汗を流したか、どんな友情を育んできたかは関係ない。全国一斉のマークシート方式は、データ処理する際の採点者側の都合であって、受験生のためを思ってではない。一人ひとりの高校生の3年間を、一片の無機質なデジタル情報におとしめている。
短時間で大量の問題を処理するのはAIがもっとも得意とする作業であり、生身の人間の理解力を測るものではない。全国規模の統一試験を国家プロジェクトとしていまだに行っている国は、日本以外には中国と韓国くらいのものだろう。
The faster, the better.(速ければ速いほどいい)、The more, the better.(多ければ多いほどいい)は資本主義の根本原理だが、大量生産、大量消費は資源の枯渇を生み、地球の温暖化を加速する。「速ければ速いほどいい」は、人を幸せにするイデオロギーではない。
そもそも大学入試は、個々の大学がそれぞれ独自の試験を実施し、大学自らの裁量で選抜すればそれですむことである。企業の入社試験などはそうなっている。
塾の授業で、上智大学外国語学部の文法の正誤問題(1984年)を取り上げたことがある。各問に4つの英文があり、そこから文法的に正しい1文を選ぶという問題。これが10問ありセンテンスの数は全部で40個。決して易しくはないが極めて良質で、問題作成の手間ひまを考えると、出題者の力量と労力にはただただ感心する。
「わが上智大学に入りたい者は、これこれしかじかの文法知識を身につけてこい」という、大学側のはっきりとした意思表示であり、これこそが入試問題の真っ当な姿だろう。共通テストという形で文科省が干渉しない方が、入試は正常に機能する。
●「コミュニケーション英語」と「英語表現」はどう違う?
英語の授業といえば、昔は、「読解」「文法」「英作」の3科目だった。わざわざ科目の説明などするまでもなかった。
しかし、今の科目は「コミュニケーション英語」と「英語表現」の2科目。高校生が持っている「学習の手引き」は、それぞれ以下のように定義している。この2科目の違いが分かる人はいるだろうか?
「コミュニケーション英語」:英語を通じて、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成するとともに、情報や考えを的確に理解したり適切に伝えたりする基礎的な能力を養うことを目標とします。「聞くこと」「話すこと」「読むこと」「書くこと」の活動について、いずれかに偏ることのないように学習します。
「英語表現」:英語を通じて、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成するとともに、事実や意見などを多様な観点から考察し、論理の展開や表現の方法を工夫しながら伝える能力を養うことを目標としています。つまり、与えられた話題について即興で簡潔に話したり、読み手や目的に応じた英文を書いたり、聞いたり、読んだりしたこと、学んだり経験したことに基づき、情報や考えなどをまとめて発表する学習です。
この要領を得ない文章の出典は、文科省の「学習指導要領」。これをほぼそのままコピペしたものがこの「学習の手引き」の文章。
「英語表現」の方は、つまり……と、わざわざ言い換えているが、言い換えが必要な定義など聞いたことがない。2科目とも、出だしは「英語を通じて、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成するとともに……」と全く同じ文言で始まる。定義が同じなら名称も同じでいい。
ズサンな言語はズサンな思考を産み、ズサンな思考はズサンな行為を産む。学科の定義がズサンなら、日々の授業の実態もズサンなものになるだろう。60分の授業で、4技能を15分ずつ偏りなく教えるとはどういう授業をいうのだろう。定期試験で「英会話」のテストがあったという話は聞いたことがない。
「英語を通じて積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成する」とはどんなことを指すのか。「英語がしゃべれる生徒を育成する」とは言っていない。育成するのは、英語をしゃべろうとする「態度」であって、英語がしゃべれる「能力」そのものではない。
●霞が関文学
何重にもオブラートに包まれたこの奇妙な言い回しに違和感を覚えないとすれば、言語感覚がズレているのだろう。翻訳すれば、「英語がしゃべれる生徒」を育てるのではなく、「英語をしゃべりたいなあという気持」を育てるということ。
英語習得のために何年も何十年も英語と格闘してきた者なら、公教育のカリキュラムをいじるだけで英語がしゃべれるようになれるとは考えない。この「要領」を起草した文科省のエリート官吏だってそのことぐらいは分かっているはず。
だから、軽率に「英語がしゃべれる生徒を育てます」とは言えない。そう明言しようものなら、将来、国会で野党議員の追及に遭って文科省が火だるまになる。そうならないために、「霞が関文学」と揶揄されるレトリックを駆使し、この妙ちくりんな「要領」を考案したのだろう。
●日本語だけで暮らせる幸せな国
そもそも日本社会にいる限り英語をしゃべる必然性はどこにもない。日本中どこに行っても日本語が通じる。あらゆる国の文学作品や文献が翻訳されている。留学などしなくても、翻訳書だけでノーベル賞級の研究ができるとも言われている。インドやフィリピンで小学校から英語で授業をするのは仕方なくやっているのであって、英語が上手くなりたいからではない。日本は、小学校から大学院に至るまで、母語の日本語だけで学べるとても恵まれた幸せな国なのだ。
しゃべる必要があるのは、一部の学者と報道関係者とビジネスエリートぐらいなもの。海外旅行は、「ハウ・マッチ」と「サンキュー」が言えればどこにでも行ける。洋画を観たかったら、吹き替えや字幕付きで楽しめばいい。その方がよほどストレスなく楽しめる。私はNetflixで洋画を観るが、英語と日本語の2つの字幕を出している。気になるフレーズはストップ・モーション機能で繰り返し聴いている。煩わしいが趣味でそうしている。
「道案内ぐらいは……」と世間は言うが、道案内の英語は難しい。それに、普通の人は、外国人旅行者に道を聞かれることは一生に一度もないだろう。コロナ禍の前は、年に数回は道案内をしていたが、それはこちらから話しかけたからであって、相手から聞かれたわけではない。
「日常会話ぐらいは……」と一口に言うが、日常会話は何が飛び出してくるか分からない。私は毎日オンラインでフィリピン人チューターと話しているが、ニュース記事を中心に展開する話題はいつも違う。受講回数は1200回を超えるが、今でも、「日常会話ぐらい」とバカにしたことはない。常に真剣に臨んでいる。
オンラインでフィリピン女性と話すことを除けば、英語教師の私であっても、ここ数年、ナマで外国人と話したことは一度もない。再度、強調しておきたい。日本で生活している限り英語をしゃべる必然性はどこにもない。
●文法問題が消えた
共通一次試験からセンター試験へと移行し、文法問題は平易になった。さらに今回、共通テストへと名称が変わり、文法問題がなくなった。これは「文法軽視」から、「文法無視」へと大きく舵を切ったことを意味する。
共通テストは、事実上、高校生にとって学習のガイドラインになる。そのテストで文法問題がなくなったということは、「英文法は学ばなくていい」、あるいは「英文法は勉強するな」という強烈なメッセージに他ならない。
文法を軽視するようになって久しいが、その間、読解力は低下し続けている。新たに文法を完全無視するようになれば、今後、受験生の読解力は目も当てられない状態になることは目に見えている。
目先の共通テストさえクリアーできれば大学生になれると思って、マークシートをメインに、安易な受験対策ばかりやっていると、大学に入ってから苦しむことになる。大学の英語の授業について行けないのだ。英語の補講授業をやる大学もあるようだが、それでも単位が取れなくて退学する学生がいると聞く。
さらに、重要なことを付け加えておきたい。文法学習は英語習得のためだけにあるのではない。英文法を手がかりに英文と格闘したり葛藤した経験は、大学で難しい専門書(英語に限らない)を読むときに活かされる。文法体系に従って英文を分析的に読む訓練によって母語である日本語力が磨かれる。英文法の学習は思考訓練の貴重なツールなのだ。英文法を無視し、共通テストのような、いわば離乳食のような英文ばかりを読んでいては思考力は育たない。
●英文法を知っていますか
英語習得において文法学習がいかに重要かを、(故)渡部昇一・上智大学教授の『英文法を知っていますか』(文春新書) を参考に、その要点をまとめておく。
●英文法の効用
コベット(1763-1835)は、農奴の子として生まれ、軍隊に入り、後にジャーナリストとなった。晩年は国会議員にもなった。彼は『若い人たちへの人生アドバイス』の中でこう書いている。
――計算の次に学ぶべきは自国語の文法である。文法の知識がなければ、正しく書くことができない。人の知性は書いた文や話す言葉で判断される。
私は文法を勉強したおかげで、伍長から上級曹長に30人抜きで抜擢された。当時のイギリス軍のなかでちゃんと書ける兵士はそれほど貴重だった。私は文法を知っていたおかげで博識ぶった連中の仮面をはぎ取ることができた。
なにをするにしても忍耐力は大切な資質だ。文法の勉強ではとくにそうだ。若い人生のこの時期に、是非とも貴重なこの忍耐力を身につけて欲しい。人が失敗するのは、才能や気質よりもたいてい忍耐力が足りないからである。
文法を完全にものにできたら、他の大勢に抜きんでる力を与えてくれる。私が人並はずれた仕事ができたのもすべてこの文法の知識のおかげなのだ。文法を知っていると、信望は上がり、自信が持て、金や地位のある人にへつらわなくてもすむ――
規範文法の勉強こそ、志ある青年を単純労働から解放し中産階級への扉を開いた魔法のカギだったのだ。
●他の言語習得が容易になる
18世紀に英国で「簡約英文法入門」を書いたロバート・ラウスは、文法をマスターすると、他の言語の修得が簡単になることを指摘している。
戦前の旧制高校では、英文法をマスターした者は、英語修得時とは比較にならない早さで、独語、仏語、ラテン語を修得していった。現代でも、英文法の根幹を修得すれば、他の印欧語の習得は飛躍的に楽になる。
●オーラル・アプローチ
フリーズ博士を中心とするミシガン大学の構造言語学や、その応用である「口頭導入教授法」(オーラル・アプローチ)は、1つの優れた理論だが、構造言語学がアメリカで発達したのは、文献記録のないアメリカ・インディアンの話し言葉を、つまり話し言葉しかない民族の言語を記述することが目的だったからだ。
そこでは、こうした記述言語学が、科学文法であるとされ、規範を求める規範文法は科学的学問ではないとされた。
かくして1950年代から、学校教育の場で「英文法」が軽んじられる風潮が生じ、敵視される傾向が生じた。こうして「口頭導入教授法」が日本でも主流となっていった。
フリーズ博士のオーラル・アプローチは、元来はスペイン語を母語とするヒスパニック系の移民に英語を教えるために用いられ、学習環境が英語を話す社会であることが前提である。
難しい文章を読むことも、立派な文章を書くことも目的としていない。
伝統文法は、元来が古典などの立派な本を読み、立派な文章を書こうという動機から生じて大成したもので、本質的に「読み・書き」のための文法である。
インディアンのように文献のない民族の言語を分析し、しかもそれによって作文する動機のないところで出来た構造言語学の文法、すなわち「幼稚なおしゃべりのための文法」とは、伝統文法は根本的に違うのである。
(故)金口儀明・上智大学教授は、受験英語を重視し、予備校でも人気があった。若い私に向かって「君の言う通りだ。構造言語学では大学受験の英語は訳せないし、英作文もできないよ」と言ってくださった。
(故)中島文雄・東大教授は、常に最新の言語学の成果を日本に導入する先頭に立っておられたが、晩年は伝統文法によってちゃんとした本を読んだり書けたりするようになることを目指した英語教育が本道であると言っておられた。
●伝統文法の価値
戦前の英語教育では、英会話の機会は稀だったが、規範文法の学習は行き過ぎるほど規範的だった。教室では、名文の暗誦が行われ、英作文は入試でも重視されていた。
その伝統は昭和60年頃までは不動だったが、構造言語学やオーラルアプローチの導入と共に、教師の側に規範文法を教える自信が失われ、生徒も我慢して文法を学ぶ気をなくしていった。かのコベットも、文法をマスターするには最低限数ヶ月の我慢と忍耐が必要だと教えているのだが。
アメリカ人やイギリス人は、「話し言葉」の訛りや文法ミスに甚だしく寛容に思われる。
しかし、「書き言葉」となるとまるで違う。この場合の「書き言葉」とは、大学のレポートや論文のことである。アメリカで肉体労働以外の職に就こうと思ったら、大学を出ていないとまず難しい。
そのためには、「書き言葉」として受け入れられる英語、つまり規範文法にのっとった英語が書けなければならないのである。
アメリカの大学で教授がこう言っていた。「留学生が、”We was”などと言うのは許せるが、レポートにそう書いてあったら、そんなものは読まない」
イギリスの大学で1年で修士を優等で取得した教え子がいる。レポートを出す度に指導教授に「よく意味の通じる良い英語を書く」とほめられていたそうだ。私の英文法の授業時間の半分は、彼ひとりの英文法の質問に答えるのに取られるのが普通だった。
●規範文法しか役に立つ文法はない
英米の大学で学位を取りたいのなら、規範文法をマスターしない限りダメ。それをマスターするにはある程度の知能と、かなりの辛抱が必要。
難しい英語の本を読んだり、英語で論文が書けるようになるには、最新の言語学は何の役にも立たない。
英語を8品詞に分析し、文章を正確に理解する伝統文法は、古代から中世、現代を通じて、実践教育で成功した唯一の言語学と文法体系なのだ。
●英語学習の半分はリスニング? そんなバカな!
2006年にセンター試験にリスニングが初めて導入された。それまで200点満点だった英語は250点満点になり、そのうち50点、すなわち2割をリスニングが占めるようになった。そして2021年、共通テストと名称が変わり、英語は200点満点中100点、すなわち5割をリスニングが占めるようになった。
単純に考えて、「試験の半分がリスニング」なら、「英語学習の半分はリスニング」ということになる。学校英語のカリキュラムの半分はリスニング、塾や予備校の授業の半分はリスニング、自宅学習の半分はリスニング、書店の受験コーナーの半分はリスニング関連、こんな異様な光景を想像してしまう。
●どんな検証が行われたのか
2006年に導入されたリスニングは、2020年までで14年間続いた。毎年50万人が受験したとして、これまで700万人以上がリスニングを受験したことになる。初期の受験生は32歳になっている。
リスニングの導入は、「会話力」の向上が目的だと考えられるが、リスニング世代になって英会話が上達したという話は聞かない。また、それを裏付ける追跡調査が行われた様子もない。
新たに始まった共通テストでは、リスニングの比率は50/250から100/200へと引き上げられた。どういう調査結果に基づいてリスニングの比重を高めたのだろうか。リスニングを導入しても英会話が一向にうまくならないのは、リスリングの問題量がまだ足りないと考えたのだろうか。
「会話(アウトプット)」と「リスニング(インプット)」は別物で相関性はない。自分でしゃべる練習をしない限り、英語の音源をいくら聴いてもしゃべれるようにはならない。読書家だからといって、だれでも作家になれるわけではない。
「聞き流すだけでしゃべれるようになる」というキャッチコピーがあるが、聞き流すだけでは、しゃべれるようには絶対ならない。空港や機内のアナウンスが聴き取れるようになったというが、それは国籍を問わず万人に分かるようにしゃべっているからであって、だれでも初めから聴き取れている。練習したから聴き取れるようになったのではない。
むしろ、リスニングについては、逆なことが言える。「しゃべれる」から「聴き取れる」のであって、「聴き取れる」から「しゃべれる」のではない。bus stopを「ばす・すとっぷ」と発音している限り、ネイティブがしゃべる「バストップ」は聴き取れない。自分で「バストップ」と発音できて初めて、それがbus stop(バス停)だと認識できるようになる。
そもそも人との会話で、相手に伝わってないとわかれば、人は相手に伝わるようにゆっくりと話そうとする。聞き手の方も聴き取れないのなら、尋ねたり聞き返したりする。これが会話であって、双方の配慮で成り立つ。相手のことを考えずに一方的にまくし立てるのは会話ではない。
●英会話は日本語力
“When in Rome, do as the Romans do.”に賛成か反対かを50語以内の英語で述べよ。(青山学院大1996年)
この問題を塾生に出したところ、10分で書き上げると思いきや30分も要した。なかには、「郷に入っては郷に従え」の意味すらよく分かってないと思われる答案もあった。
この答案が書けないのは、論理的にものごとを考える力がないからであって、英語力の問題ではない。書けないのだから、当然、しゃべれない。会話はリズムだから3秒も黙っていたら、どうかしたのかと相手に怪訝な顔をされる。
以下の会話で、太郎と花子がそれぞれ自分の意見を言うのに30分もかかっていたら会話にならない。
太郎:「海外では、やっぱり、郷に入っては郷に従えだよ。その方が無用なトラブルを招かなくてすむから」。花子:「私はそうは思わないわ。日本のマナーを伝えることだって、国際交流の一つよ」
こういうやり取りを英語で行うのが英会話であり、日本語で考える力がないと英会話どころの話ではない。
●リスニングは異様な緊張を強いる
家庭であれ、職場であれ、学校であれ、しかるべき状況があって会話は展開する。しかし、リスニングの試験では、何の脈絡もなく一方的に音声が流れ、一方的に質問が飛んでくる。聞き逃したら後戻りはできない。極端な緊張を強いられる。
全国各地の試験会場で、50万人もの若者が、同日同時刻に、一言も聞き漏らすまいと息を止めて、同一の音源に耳を傾ける。異様な光景としか思えない。文科省は日本の若者をどんな型枠に入れようというのか。学校教育の現場では、いまだに「起立」「礼」「着席」のかけ声が続く。
――子ども向けにこんなクイズがある。バスの乗客は20人。バス停で3人が降り、5人が乗ってきた。次のバス停で6人が降り、10人が乗ってきた。次のバス停で……。子どもは無意識のうちに乗客の数を計算し始める。しかし、質問が、予想に反して乗客の数ではなくバス停の数だったらどうだろう。
リスニング問題(B・問5)を取り上げてみよう。
英語を聞き、「内容と合っている絵を4つの選択肢から選べ」という問題。絵は、数人がバス停でバスを待っているシーン。絵を見ると、女性がいて男性がいて、全員がきちんとした身なりをしている。帽子をかぶっている人もいればサングラスをかけている人もいる。ザッと眺めてこんな視覚情報が目に入る。
音声の英文は:Almost everyone at the bus stop is wearing a hat.(バス停でほぼ全員が帽子をかぶっている)
①から④の選択肢で、帽子をかぶっている人数はそれぞれ、①は5人、②は4人、③は1人、④はゼロ。
正解は②。私は①を選び不正解だった。
①から順に絵を見ていく。①は5人中5人が帽子をかぶっている。さっそく、「これだ」と即断した。自信があったので、残りの②③④の絵のチェックはスルーした。
あとで振り返ると、almost everyone(ほぼ全員)とeveryone(全員)では意味が違う。ミスの原因は、almostの「音」を聞き逃したからではなく、almostの「意味」の解釈と、残りの絵をよく見なかった点にあった。
リスニングについて、塾生には常々こう指導している。精読はきちんと読まなければならないが、リスニングは、大体こんな意味だろうと大ざっぱに聞くのが秘訣。一言も聞き逃すまいと構えていると、逆に音を取り逃がしてしまう。だが、もし聞き逃しても焦ることはない。脳が自動的に補正してくれるから力を抜いてリラックスして聞くのがコツ。
「今日は××が降りそうだから、××を持って行きなさい」。もし××を聞き逃しても、脳は、××をそれぞれ「アメ」と「カサ」だと認識する。
He is an old man.では、Heとoldさえ外さなければ、意味は了解できる。I’m not going to go.をネイティブは通常、「アイム・ノッコナ・ゴー」と発音する。Iとnotとgoが分かれば了解できるのだが、「ノッコナ」にこだわると意味が分からなくなる。「学校」という漢字のフリガナは「ガク・コウ」ではなく「ガッコウ」。音として「ガッ」だけを抽出すると意味不明になる。
ここでの私のミスは、大ざっぱに聴く姿勢が災いした。「ほぼ全員」も「全員」も、ほぼ同じだ、almost the same、私の脳はそう判断した。
●リスニングは何を測定しているのか
この「絵を当てる問題」は、「帽子」の問題を含めて7問続く。「彼女が買おうとしているTシャツ柄はどれか」「母親が自画像を描いているのはどれか」「カップとストラップと取っ手の付いた水筒はどれか」「お掃除ロボットはどれか」「日が照っていて、手が汚れる作業で必要な用具は何か」「エレベータの場所はどこか」。
このように日本語に訳すと、何が問われているか、その本質がはっきりする。理解力と判断力を問うとは名ばかりで、質問が英語であることを除けば、これは幼児教育の題材である。最高学府で学ぶ知性とは何の関係もない。
今回の共通テストの出題形式がサンプルとなり、これをベースにさまざまなリスニング教材が開発されるだろう。そして、学校と予備校と自宅でこのオママゴト習得のための練習が延々と繰り広げられるのだろう。
●オーラル・アプローチは移民のための言語理論
私は、この「絵を当てる問題」で、janitor(清掃作業員)の姿を思い浮かべた。帽子をかぶり、お気に入りのTシャツを着て、腰には水筒をぶら下げ、軍手をはめた手はホウキ持ち、お掃除ロボットを連れ、エレベーターの掃除に向かう清掃作業員。
雇い主にとって大事なのは、指示したことを清掃作業員がちゃんと理解するかどうか。「あれを持ってきなさい」「これを買ってきなさい」「どこどこに行きなさい」「ここを掃除しなさい」
このリスニングの問題は、(故)渡部昇一教授の分析とぴったり符合する。オーラル・アプローチは移民の言語政策から生まれ、ヒスパニック系の移民がアメリカ社会で生きていくためにある。単純な肉体労働に就くのに必要なのは、話し言葉の理解であって、難しい文章を書いたり読んだりすることではない。
『英文標準問題精講』という、累計発行部数1,000万部を超える隠れたベストセラーがある。220編の思想家や大家の作品が載っている。一昔前には、ここに挙がっている難解な英文を、少し手助けをすれば精読できる受験生が数多くいたが、今は違う。『英標』が読み通せる受験生は1%にも満たない。
中学・高校と6年かけて英語を学んでいながら、偉大な文学作品を原文で味わうことができないとすれば、その文化的な損失は計り知れない。オーラル・アプローチと称する「英会話ごっこ」にうつつを抜かしている間に、失ったものは大きい。受験生は移民の聴力と引き換えに教養をたしなむ読解力をさらに失っていく。
2021年2月12日