『英標』はエネルギーを放射し続けている

英文標準問題精講』、通称『英標』の発行は1933年。累計発行部数は1,000万部を超える。受験参考書としては異例のロングセラー。書店では今も平積みになっている。受験参考書だが社会人にも根強い人気がある。

教養書として手にする人もいれば、受験時代を懐かしんで購入する人もいる。あるいは英文の読解力を鍛えようとチャレンジする人もいる。

気軽に読める本ではないが、手元に置いておくだけでもいいと思わせる魅力がある。そうそうたる作家のナマの原文が、強烈なエネルギーを放っている。すごみのあるサビの部分は人を惹きつける。

掲載されているのは220編だが、その背後には著者が読破した何百冊もの原書の山があるはず。著者の原仙作氏は、20代で同書を書いたと言われているが、1933年という時代を考えると、著者のケタはずれの洋書の読書量には驚くしかない。

洋書だけでなく、和書の読書量も尋常ではないだろう。みごとな訳文から、豊富な読書量に裏打ちされた、著者のゆたかな国語力にも驚かされる。例題96は『老人と海』の一節。訳文は、福田恆存(新潮文庫)の翻訳文と照らし合わせても遜色がない。

『英標』の英文は古いという批判があるが、古いのは1カ所のみ。練習問題【8】で、ニュートンが、やんちゃな愛犬ダイアモンドに話しかけるくだり。

“Diamond, thou little knewest the little mischief thou hast done!” ※ thou(you)/ knewest(know)/ hast(have)

ニュートンの時代の英語だから17世紀のもの。それ以外は普通の現代英語だから批判は当たらない。そもそも漱石や鴎外が明治の作家だからといって、その文体を古いといって非難する人はいない。

ほんの一例だが、こんな内容を原文で味わうことができる。

練習問題【17】は、ヘミングウエイの「氷山理論」のエッセンス。表面に現れているモノだけに目を奪われていると本質を見落とすという教え。

練習問題【20】は、ニュートンの有名な一節。この箇所を原文で読むだけでも『英標』を購入する価値がある。この文では、andがつないでいるものをたいてい見誤る。英文の構造はむずかしい。

練習問題【39】は、自己啓発書の古典。もし自分自身を愛することができなければ他人を愛することはできない。その理由は……。

練習問題【49】は、芸術家論。世間に認められたがる独創的な芸術家は愚かである。なぜか。

練習問題【102】は、ヘレンケラーが、はじめてwaterという言葉を獲得したときの感動的なくだり。そのとき、ヘレンの内面ではどんなセンセーションが起きたのか。

●読み通せる読者は1%もいない

掲載されている英文は総じてむずかしい。その解説もかゆいところに手が届くものではない。系統樹のような英文の解剖図がところどころに示されているが、これがわかる受験生はだれもいないだろう。

このツリー状の系統樹はチョムスキーの変形生成文法を連想させるが、この時代、チョムスキーはまだ世に現れていないから詳細はわからない。いずれにしろ無用の長物であることに変わりない。ただ、著者が言語学にも精通していたことをうかがわせる。

延べ1,000万人が同書を手にしていながら、それが正確に読める読者は限られている。昨今の文法軽視のカリキュラムで育った高校生や大学生、あるいは教師も含め、同書を読み通す能力のある読者は1%にも満たないだろう。

このことは、全220編について、のべ数十回の講義を塾生に行ってきた指導者として、また個人的に同書の音読を350回くり返してきた一学習者として断言できる。

●文科省の責任は重い

中学・高校と6年かけて英語を学んでいながら、偉大な思想家や大家の文学作品を原文で味わうことができないとすれば、その文化的な損失は計り知れない。センター試験の点数に一喜一憂したり、マークシートの練習にうつつを抜かしている間に、われわれは教養をたしなむ資質を奪われてしまった可能性がある。

1,000万人もの購入者が同書を読みたいと挑んでも途中で投げ出してしまう現実は何を意味するのか。「スピーキング」に偏重した英語政策は、止むことのない「読解力」の低下を引き起こしている。おおぜいの読者のまじめな学習意欲に応えることのできない英語教育とは何なのか。

1979年に始まった共通一次試験は、1990年に入試センター試験と名を変え、2021年には共通テストとなる。この間、2006年にはセンター試験にリスニングが導入された。

悪手を打ち続ける文科省の英語政策は、受験生の読解力の低下とピタリと相関している。失われた40年を取り戻すには同じく40年を要するだろう。誤った英語政策のツケを回される国民はたまったものではない。文科省の責任はとてつもなく大きい。

2020年11月4日