『日本人なら必ず誤訳する英文』
『日本人なら必ず誤訳する英文』 越前敏弥 著
著者は、『ダ・ビンチ・コード』の翻訳者として知られている。同書は、単行本・文庫本の合計発行部数が1,000万部を超えるベストセラー。
本書は3部構成で、それぞれ、「基礎編100題」「難問編30題」「超難問編10題」の英文が載っている。どの文も短く、せいぜい語数は10語から20語。使われている単語は平易で、おおむね3,000語レベル。したがって本書の英文を読むのに辞書はいらない。いや、辞書があっても読めない英文が並んでいる。新書版サイズで気楽に読めそうだが中身は手強い。
①I am willing to sing the song, but not now.
②The thought of him never being able to return home was a shock to me.
③There was something about these that I knew was right.
①では、notはnowを否定しているのだろうか?
②では、beingは動名詞だろうか? 現在分詞だろうか?
③では、関係代名詞の範囲はどこからどこまでだろうか?
上に挙げた例文は本書の基礎編から選んだもの。国公立大の下線部訳の問題と同レベルの英文にあたる。英文法をしっかり身につけた受験生ならつまずくことはないが、中途半端な文法知識では歯が立たない。「難問編」や「超難問編」にいたっては、まったくのお手上げだろう。
本書で、著者がインタビューに答えている箇所がある。それを読むと、著者の英語の学び方や言語に対するスタンスがよくわかる。以下はその要略。
●身長と同じ高さの原書を
駿台予備校に2年かよい、伊藤和夫先生に教わった。伊藤先生は、僕のそれまでの「英語の読み方」を根底から変えてくれ、英文の分析のしかたに新たな視点を与えてくれた。
伊藤先生は、こんなことをおっしゃっていた。「ほんとうの意味で大人の英語を読めるようになるには、積み重ねたときに、身長と同じ高さになるぐらいの原書や英語雑誌を読まなければならない。ただし、それは大学生や社会人になってからやるべきで、受験時代には必要ない。受験用テキストの勉強によってそういった英語を読む下地を作るだけでじゅうぶんです」
僕自身、駿台のテキストや受験用参考書しか勉強しなかったけれど、伊藤先生の著書は、『英文解釈教室』をはじめ、『英文法頻出問題演習』や『英語構文詳解』は、すべて覚えた。1浪目も終わりのころには、たぶん東大に合格できるギリギリの力がついていた。しかし、受かってもおかしくないレベルだったが落ちた。結果的には、それがよかったと思っている。
1浪目のときに、伊藤先生の授業を受けてわかった気になって、実はよくわかっていなかった。2浪して、もういちど授業を受けることで、深く完全に理解できるようになった。実際、英語は得意科目になり、駿台の模試でも上位成績者、つまり、ひと桁かふた桁の順位に入っていた。2浪目のときは、そうとう高いレベルで合格したはず。
●英文は理詰めで書かれている
どんな人でも間違える英語はある。ビジネススクールへの留学を考えている人たちは、金融業界や商社に勤めている人が多く、彼らは仕事でも英語に接している。TOEFLも9割くらいのスコアをとる。リスニングやスピーキングだったら僕はかなわない。それでも勘ちがいする英文というものがあって、そこには必ず理由がある。その発見が、本書の原点でもある。
翻訳学校に入り、翻訳家の田村義進先生のクラスに、自信満々で臨んだ。どんな英文だろうとだいじょうぶだと思っていた。ところが、教材を見てぶっ飛んだ。ジェイムズ・エルロイだ。(映画『L.A.コンフィデンシャル』『ブラック・ダリア』の原作者)
一見文法を無視したかのような、ぶつぶつに切れた文章。しかも知らない単語や、知っていても意味のとれない単語ばかり。何が書いてあるのかさっぱりわからない。鼻をへし折られた。
それまで万能の辞書だと思っていた「リーダーズ」でさえ、ほとんど役立たず。田村先生に勧められた「ランダムハウス英和大辞典」をあわてて買った。あれこれ調べてそれでも半分しか解決しない。結局、文脈レベルでぜんぜんわかっていなかったということに気づいた。
凝った文体の小説の前では、フォーマルな英語を読み解く力が無力だということではない。フォーマルな英語があるからこそ、エルロイのような省略文体の理解が可能になる。原型あっての変型である。つまり、そもそもフォーマルな英語が読めなければ、フォーマルでない英語が読めるわけがないのだ。きちんとした構文解析力が必要だということが見えてきた。英文はさりげないようで、実はものすごく理詰めで書かれている。
●アメリカで5年暮らしても訳はデタラメ
フェロー・アカデミーで翻訳を教える立場になって発見したことがある。「訳す」という作業が、英語を学習するうえで、とても大切だということ。
あるクラスに、5年ほどアメリカ暮らしをしていた生徒がいて、「自分で英語を読んでいて、わからないことはない」と言い張る。ところが、訳させてみるとほんとうにデタラメ。わかった気になっていたにすぎない。
結局、英語を正しく理解しているか否かを知るには、訳してみる以外に方法はない。「英語を英語のまま理解する」とよく言われる。それは最終目標としては正しいが、少なくとも日本語を母語として育った人間について言えば、正しく訳せないものはぜったいに理解できていない。
●受験参考書こそ最高レベルの教材
10年近く翻訳学校で教えてきた経験から言うと、日本語の運用力と英語の読解力は、完璧に比例する。「どっちが大事ですか」と聞かれるが、どちらか一方が得意なんてありえない。日本語の語彙が貧困なのに英語だけが豊かなんてことはない。
一読してわかりにくい日本語を書く人が、英語の構文を読みとるときだけは鋭い、なんて例は見たことがない。現実には、訳出という作業によって二つの言語のあいだを行き来することで、両方の言語の特性がより深く理解できる。翻訳だけでなく、中高生レベルの英文和訳でも同じこと。
時代遅れかもしれないが、「訳す」という作業を、英語学習の中に採り入れたほうがいい。TOEFLやTOEICといった試験は、訳読が求められないから、受験生が、表面的にわかった気になってしまうことがこわい。訳文を作ることを要求されない試験であっても、訳読、英文和訳をやったほうがいい。では何を勉強するかと言えば、大学受験の参考書以外にはない。英語の読み方が、最も高いレベルできちんと解説されているからだ。
●地道な受験勉強が必ず生きてくる
今の英語教育は、コミュニケーションを中心としたものにシフトしている。それはそれでいい。英語を話す度胸をつけて会話能力を磨いて、外国人と仲よくなれたら、ほんとうにすばらしいこと。
ただ、より高い次元の英語を、たとえば仕事のレベルで「かぎりなく正確に読む」ということを考えるのだったら、どこかで単なる会話主体の英語学習から卒業しなければいけない。構文解析のような地道で地味な勉強を、ある期間徹底してやる必要がある。それと、日本語に対しても、英語以上に敏感になれるよう、日ごろから注意しておく必要がある。
かつて大学受験などの大きな試験に向けて本格的に勉強した人とそうでない人とのあいだには、翻訳学校でも明確な差がある。受験勉強をしっかりやった経験のある人は、「ここまでは調べなければいけない」という追求の度合いが深い。結果として、そうでない人との差がますます広がる。労力の過程で得たさまざまな蓄積は、新しいことをやろうとしたときに必ず生きてくる。どういう作業が必要か、どれほど苦しいか、どれだけ時間がかかるか、そういったことを頭と体で知っているからだ。
2012年07月11日