われわれは言葉以上のことを知っている
チュンプルズに、マイケル・ポラニーの次の言葉を引用したことがある。
We can know more than we can tell.
I shall reconsider human knowledge by starting from the fact that we can know more than we can tell. This fact seems obvious enough; but it is not easy to say exactly what it means. Take an example. We know a person’s face, and can recognize it among a thousand, indeed among a million. Yet we usually cannot tell how we recognize a face we know. So most of this knowledge cannot be put into words. |
──The Tacit Dimension by Michael Polanyi──
人間の知識についてあらためて考えなおして見よう。人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くのことを知ることができる、という事実である。この事実は十分に明白であると思われるかもしれない。しかし、この事実がなにを意味しているかを正確に述べることは簡単なことではない。一つの例をとりあげよう。我々はある人の顔を知っている。我々はその顔を千、あるいは一万もの顔と区別して認知することができる。しかし、それにもかかわらず、我々が知っているその顔をどのようにして認知するのかを、ふつう我々は語ることができないのである。そのため、この知識の大部分は言葉におきかえることができない。 |
──暗黙知の次元 ―― 言語から非言語へ マイケル・ポラニー著──
この「暗黙知の次元」を読んだとき、上記の一節が気になって仕方がなかった。内容が示唆に富んでいるという理由だけでなく、同じ文章を入試問題で読んだ記憶があったからだ。かといって、何年のどの大学だったかはハッキリ覚えていない。
全国大学入試問題集は、2001年までは、研究社と旺文社の2社が国公立大学編と私立大学編を出版していたが、2002年以降は、旺文社版だけになった。今年の旺文社版で掲載されているのは、国公立大が78校、私立大が88校。目を通すには1年分だけでもかなりの量である。
本棚には、1980年代から現在まで過去30年分の入試問題集が並んでいる。国公立大編と私立大編の2冊を合わせると、5センチの厚みになる。10年分で50センチ、30年分だと150センチの幅になる。毎年5センチ幅で増えていくから、保管はスペースとの闘いだ。あらゆる入試関連図書の原本になるから、おいそれと処分するわけにはいかない。本棚に並べきれない50年代~70年代分も、捨てきれずに押入に保管してある。
気になる文章を探すのに、過去問を一つひとつさかのぼって調べるのは相当手間がかかる。しかし、どこの入試問題だったか気になる。少し丁寧に記憶をたどってみた。
「暗黙知の次元」を引用したのは、99年版のチュンプルズの「あとがき」だった。そこで似た文章の記憶があったということは、入試問題を読んだのは、当然、それよりも前の年、99年より以前ということになる。
毎年、掲載大学のすべてに目を通しているわけではない。主に目を通しているのは、国公立大では東大・京大・阪大……、私大では早大・慶大……と、かなり限られてくる。それに、該当する文章は、下線部訳を求める記述問題だったとうっすら覚えている。
そこで、私立大学編は外し、国公立大学編だけに絞って調べることにした。記憶では、「あとがき」を書いた99年から数年さかのぼった頃に読んだ気がする。あたりをつけて93年版を調べてみたが無駄骨だった。
結局、99年から1年ずつさかのぼって、1校ずつ各問の英文に目を通していった。目的がハッキリしているからパラパラとめくるだけでチェックできる。速読でいうザッピング(zapping)とはこういうことをいうのだろう。結果、判明したのは、90年の東大(前期日程)4番の問題だった。
90年 東大: Language, when it is used to convey information about facts, is always an abbreviation for a richer conceptualization. We know more about objects, events and people thanwe are ever fully able to express in words. Consider the difficulty of saying all you know about the familiar face of a friend. The fact is that your best effort would probably fail to convey enough information to enable someone else to single out your friend in a large crowd. This simply illustrates the fact that you know more than you are able to say. |
──90年大学入試英語問題の徹底的研究・ 国公立大学編・研究社出版より──
全訳:いざ言葉で事実を伝えようとすると,いつも意余りて言足らずの思いを覚える。事物、出来事、人の別を問わず、それらに関する我々の認識はいくら言葉を尽くしてもなお余りあるほどに豊かなものである。友人の見出れた顔について自分の知っているすべてのことを語ることの難しさを考えてみるがよい。実際のところ、たとえどんなに言葉を尽くしても,群衆の中から自分の友人を第三者に見分けてもらえるほどの説明は、なかなか出来ないものだ。まさに意余りて言足らずの思いの好例である。 |
──同書より──
しかし、やっとのことで記憶の出所を突き止めてはみたものの、同一の文章だと思っていたのは勝手な思い込みだった。内容も表現もきわめて似ているが、厳密には以下のように違っていた。
── マイケル・ポラニー ──
・We can know more than we can tell.
・群衆の中から知っている顔をどのように認知するかを語ることはできない。
── 東大入試問題 ──
・You know more than you are able to say.
・友人の見慣れた顔であっても言葉では説明できない。
結果的には異なる文章ではあったが、それぞれの文章をほぼピンポイントで照らし合わせることができた。「暗黙知」を地でいく経験だった。
そもそも、「暗黙知の次元」を読んだのも希有な偶然からだ。車で30分ほどのところに県立図書館がある。貸し出し冊数にはまだ余裕があり、せっかくだからと、本屋で買ってまでは読まない本を選んだ。
県立図書館の蔵書数は122万冊。そのなかから適当に選んだのが『書と「共通感覚」』という本だ。『「筆蝕」論への批判として』という副題も付いている。私にはつかみどころのない書名だったし、著者名も出版社名も聞いたことがなかった。
「私は字を書くのが下手である」という文で始まり、
・年賀状
・執筆法には法則がある
・朱を入れることによって直せる限界
・ペンという便利な道具があるのに
・良寛の書の線は動勢にある
・線条性と現示性という次元で見た書
・「書」における日本人の美意識
……といった目次が並ぶ。なじみのない分野だが興味をそそる見出しだ。読んでみるとこれが面白い。図書館に返却したあとも手元に置いておきたくなり、自分でも購入した。マイケル・ポラニーを知ったのは、この本を通してである。
「数ある本のなかで、なぜ読みもしない本を手に取ったのか?」「なぜ手元に置きたくなったのか?」「なぜマイケル・ポラニーが気になったのか?」「なぜ原書まで取り寄せたのか?」「……」
これらの問いに答えることはできるかもしれないし、できないかもしれない。しかし、どちらにしろ言葉にできる世界は限られている。人の顔だけでなく、味や匂いや音など、言葉では表現できないが識別できる世界は無数にある。言葉にできなくても、「われわれは言葉にできる以上のことを知っている」のだ。
2010年12月11日