英文暗記で掴んだ人生の戦略
覚醒するマインドー英文暗記で掴んだ人生の戦略
『英文標準問題精講』(原仙作著・旺文社)という大学受験用の参考書には、世界的文豪や思想家の英文が全部で220編載っている。読み応えのある英文が満載である。目立つ装丁ではないが着実に売れ続けている。1933年に刊行され、累計発行部数は1,000万部と言われている。『原の英標』の名で一世を風靡した時期があり、今も書店の受験コーナーでは平積みになっている。
大学受験生に英語を教えて40年になる。主宰する『かつうら英語塾』のテキストに用いているのがこの『英標』である。私は半年前から、同書の前半の100編の暗記に取り組んでいる。前半の100編までを選んだのは、英文が比較的短く、暗記するのに値する名文が多いからである。1編から100編までの総語数はおよそ8,000語。1編につき平均80語である。後半を暗記の対象にしなかったのは、残りの120編は長文が続き、総語数はペーパーバック1冊分に匹敵しそうで、これを暗記するのは荒唐無稽に思えたからだ。
暗記するには、かなりの時間とエネルギーを要し一筋縄ではいかない。当塾の高校生は、この100編をきちんと読みこなすのに辞書を駆使し1年かけて格闘している。「読む」「書く」「聞く」「話す」の四技能のうち、「読む」ことこそ基本である。そうであるにもかかわらず、文科省は「英会話重視」「文法軽視」の悪手を打ち続ける。いまや同書を読み通せる人は、高校教師も含め絶滅危惧種になっている。中学、高校、大学と十年に渡って英語を学びながら、原書もろくに読めないとは、どういう英語教育であろうか。
難解な英文であっても、塾のテキストに使ってきた私にとっては、隅々まで熟知した英文である。暗記を始めたのは、必ず暗記できるという自信があったからだ。その自信は、これまでさまざまな英文の暗記に挑み、そのすべてを達成してきたことにある。(注)巻末。どれも数年かけて覚えてきた。暗記するにはいくつかのコツがある。その秘訣と効用を伝えたい。
●分割しない
100編を覚えようとして、たいていの人が犯す過ちがある。100を10に分割して、10編ずつ覚えていこうとすることである。一見すると合理的に見えるが、このやり方は必ず失敗する。かりに50編まで覚えたとする。苦労して半分までたどり着いたとき、ふと振り返る。すると、覚えたはずの最初の10編がまったく言えなくなっていることに気づく。愕然とし無力感に打ちのめされる。これから挑もうとする次の50編は、難攻不落の堅固な城に見えてくる。ここでたいてい挫折する。後ろを振り返り落胆し、前を見て戦意を失う。だから分割してはいけない。
たとえば、うるし塗りは、塗っては乾かすを何度もくり返す。お椀にうるしを塗るのに、お椀の10分の1にうるしを塗り、それを完成させてから次の10分の1に取りかかるのは馬鹿げている。同様に、100編を覚えるのに10編ずつ分けて覚えるのは間違ったやり方である。1から100までを一体化した全体とみなしそれをくり返す。部分は全体であり、全体は部分である。部分と全体は不可分で一体である。だから、一旦は最後までやり通すことが重要なのだ。
この不可分の考えが当てはまるのは、なにも『英標』の暗記に限らない。高校生の教科書や参考書、大学生の専門書の読み方に至るまで広く当てはまる。教科書の第1章を完全に理解してから第2章へとだれしも考える。しかし、全体の概要をつかんでいないと各章はわからない。全体があっての部分だからだ。
●完璧さを求めない
昔、神田神保町の古書店街を歩いていて、古書店に並ぶ大学の教科書を何冊も目にした。サムエルソンの『経済学』の英語版は、最初の数ページに単語の意味の書き込みがあるだけだった。数ページであえなく討ち死にした痕跡である。学生が真面目であればあるほどこの過ちに陥る。学生にとって、ときにはいい加減であることも資質の一つである。やり抜くには、細かいことをいちいち気にしない神経の図太さもいる。
まず、完璧さが先にありきではない。結果的に完璧になるのであって、最初から完璧さを目指すのではない。うるし塗りでいえば、まず最初の一塗りがある。それで完成ではない。塗っては乾かしを何度もくり返し、ムラなく塗り重ねていく。こだわるべきは質よりも量なのである。広く浅くを何度もくり返す。
1周目の暗記の完成度は10点満点中の1点である。最初から10点満点を目指すのではない。最初は粗くて大ざっぱでいい。とにかく1編から100編までを委細かまわず強引にやり抜く。2周目は少しましになる。だが完全暗記にはほど遠い。それでいいのである。わずか数回くり返したら覚えられると考える方がおかしい。くり返す回数は十数回でもない。数十回でもない。数百回である。
この数百回という回数は「ういろう売りのせりふ」を覚えたときの体験から来る。この歌舞伎の演目は原稿用紙にすると4、5枚分ある。意味不明な早口言葉のようなせりふが延々と続く。俳優やアナウンサーの滑舌訓練に用いられている。面白半分から「せりふ」の音読を日課にしていたことがある。ある日、とつぜん衝撃が走った。気がつくと、原稿を見ずに「せりふ」をしゃべっていたからだ。覚えようとせずに覚えてしまったのだ。そのときの回数がおよそ700回だった。このセンセーショナルな体験から、くり返しさえすれば何だって覚えられるという確信を持つようになった。
「せりふ」を無意識に覚えてしまうのに700回を要した。意識して覚えようとすればたぶん100回くらいで覚えられたかもしれない。だが、それを無意識のレベルにまで落とし込むには、さらに2、300回を要する。自動化され口からスラスラ出てくるようになるには、結局、数百回を要するのである。
したがって、わずか数回くり返したぐらいで、自分の能力を疑ったり不安を抱いてはいけない。まだ始まったばかりである。つまずこうが忘れようが、どんなに複雑な英文が立ちはだかろうがくじけてはいけない。というより、そんなことを気にしては前に進めない。無心に淡々と回数を重ねるのである。ヘタな期待はストレスを生み、落胆につながる。
英語に、こんなことわざがある。A watched pot never boils.(見つめられていると、ナベはなかなか煮えない)。期待を抱かず、無心に続けていると、「その日」は必ず訪れる。その日がどのように訪れるかを次に紹介しておきたい。
●量は質を転化させる
「量質転化」とは、量を積み重ねていくと質的な変化が起こるというもの。質が変化するまで徹底的に量をこなすのである。この「量質転化」を、そもそもヘーゲルはどの著書でどのように言っているかを知りたくて、県立図書館で、ヘーゲルとその関連図書を何冊か手に取ってみた。しかし、膨大な、しかも読みづらい著書の中から、それはおいそれとは見つからなかった。
そんな折、友人が市民大学講座で「哲学」を受講しているのを知った。その友人が、講師の大学教授に「質量転化」の出典を聞いてくれた。友人を介して、それは、『小論理学』(岩波文庫・松本一人訳)のP325-P327 に書かれていることがわかった。特定の哲学者の特定の概念の出処がたちどころにわかるのだから、やはり専門家はすごい。
ヘーゲルは「量質転化」をこんな例を挙げて説明する。「小麦を一粒ずつ積み上げていくと小麦の山ができる。馬のしっぽの毛を一本ずつ抜いていくと禿げたしっぽになる。水を熱し続けると水蒸気に変わり、冷やし続けると氷になる。ロバの荷を一オンスずつ増やしていくと、ロバは担いきれない重荷のためとうとう倒れてしまう。こうした例え話を空論的な無駄話と言う人があれば、それは大きな間違いである。なぜなら、それを知ることが実践において非常に重要な意義を持つからである」
私は英語学習はスプーンでバスタブに水を溜めるような行為だと考えている。スプーン一杯の水はわずかであり、バスタブの容量からすれば、感覚的にはゼロに等しい。そうであっても、水を入れ続けなければ満杯になることはない。だが、いつ満杯になるかは誰にもわからない。さらに、もう満杯だろうと思っても、水には表面張力があるから簡単に溢れ出すことはない。しぶとく諦めずに水を入れ続けなければならない。にもかかわらず、たいていの人は水が溢れ出す前のどこかの地点で投げ出してしまう。そんなとき、ヘーゲルの言葉が強力に背中を押してくれる。
先に述べたように、私が「ういろう売りのせりふ」の暗記に成功したのは、覚えようとしなかったからである。期待を抱かず無心に続けていると、「その日」は必ず訪れる。その訪れ方は、ビッグバンにも似て衝撃的である。目が追う言葉と、口から出てくる言葉がずれていたからだ。読んでいる原稿よりもずっと先をしゃべっていたのだ。「まさか……」「もしかして……」と、震えるような感動を覚えた。量による質の変化を体感した劇的な瞬間である。
「量質転化」は、英語学習に限らず、あらゆるスポーツ、習いごと、稽古ごとに通じる。スポーツ界の名言を三つ挙げておこう。
フロイド・メイウエザー・ジュニアの名言:「お前らが休んでいるとき、俺は練習している。お前らが寝ているとき、俺は練習している。お前らが練習しているときは、もちろん俺も練習している」(米国のプロボクサー。50戦50勝で、史上初めて無敗のまま5階級を制覇して引退した)
王貞治の名言:「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのなら、それは努力と呼べない」
「努力は裏切らないは嘘。何度でも裏切られる。だが努力以外に術はない」は、2009年に全米チアダンス選手権大会で優勝した福井商業高校・顧問の言葉である。日本の片隅にある田舎の高校が、本家本元のアメリカを制覇したのだから驚きである。その実体験に基づくこの言葉には力がある。映画・『チア☆ダン』では、天海祐希がその顧問役を演じていた。天海祐希の発したこの言葉は、私を含むスクリーンの前にいた観客全員の心を間違いなくわしづかみにした。以後、同校は全米選手権で5連覇を含む通算7回の優勝を飾る。
●自分をモニターする
1927年から1932年の5年間、シカゴ郊外のホーソンという場所にある工場で、生産性の向上を目的とした実験が行われた。経営者は工場の照明を明るくしたり暗くしたりしてみたが、どちらの場合も生産性が向上した。この理由は、照明の明るさではなく、従業員が「自分たちが注目されている」と感じたからだった。このことから、「注目されると生産性が上がる」という現象をホーソン効果(Hawthorne Effect)と呼ぶようになった。
このホーソン効果は「暗記」に応用することができる。個人的な作業を誰かに注目してもらうことはできないから、自分が自分に注目する。言い換えれば、自分で自分をモニターするのである。進度表を作り、回数を記録する。1周したときの開始日と終了日を記録する。100編を1周するのに要した日数が一目でわかる。私の場合、最初の1周に要した日数は31日。いま50周目を終え、直近の1周に要した日数は14日。くり返せばくり返すほど、日数は確実に縮まっていく。縮まっていくのを目にすると、モチベーションが高まり、さらに日数が縮まっていく。
モニターする箇所は他にもある。人間の精神は、放っておくと、欠けているもの、足りないもの、不完全なものに目が向く。しかし、目を向けるのはネガティブな箇所ではなく、ポジティブな箇所である。マイナスには目をつぶり、プラスに注目する。前回よりも今回はうまくなった、次回は今回よりも必ずうまくなる、と自分を信じることである。ネイティブにとっても難解な英文を暗記している自分を誇らしく思うことである。やり抜くには高い自己肯定感を持ち続けなければならない。
英語を学ぶ力とは、人生を生き抜く力に他ならない。山あり、河あり、谷あり、それらを乗り越えていく力こそ生き抜く力である。いわゆるグリット(gritやり抜く力)である。逆に言えば、英語を習得しようとすることで生き抜く力を培っているのである。
●18分だけやってみる
2023年、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本代表を優勝に導いた栗山英樹監督はこう言う。夢の実現は、「できるかできないかでなく、やるかやらないか」である、と。何もしてない状態から何かを始めるのだからスムーズにはいかない。この「やる」という行為に対して常に立ちはだかるのが「先延ばし」という悪癖である。この悪癖に立ち向かうのに、私に意識革命をもたらした一冊の本がある。それは、『18分集中法』(菅野仁著)である。
この本の主旨は単純にして明快である。とにかく「18分だけやってみよう」、というもの。1時間では長すぎる。だが、18分なら軽い気持ちで始められる。では、なぜ30分ではなく、20分でもなく、18分なのか。18分は区切りの悪い数字である。20分だと区切りがいい。3回くり返せば1時間で一区切り感が生まれる。そして、そこで一段落してしまう。この安心感は、次に作業を再開するときの見えない壁になる。18分は、20分に2分足りない。この中途半端な感覚が次へのステップを促す。あと2分というところで止めると、未達感が生まれる。居心地が悪く、早く埋めたくなる。『18分集中法』は、人間の心理を巧みに利用した行動テクニックである。
ニュートンの運動法則に、「静止している物体は静止を続け、動いている物体は動き続ける」という慣性の法則がある。私は、この物理空間の法則は、日常生活のさまざまな場面に当てはまると考えている。新たに事を始めるということは、「静」から「動」へのギヤーチェンジである。
余談だが、気になる女性にいきなり便箋10枚のラブレターを送ったら、相手の女性は引くだろう。多くの男性が、手紙が長ければ長いほど、それが誠意だと勘違いしている。見知らぬ男性から突然、便箋10枚の手紙を受け取ったら重すぎるのである。慣性の法則に逆らう行為だから、さりげなく始めなければならない。挨拶か何かでもって、そっとアプローチするのが鉄則である。
18分なら、さあやるぞと、気負うことなくスッと始めることができる。さらに、18分は、フィニッシュも宙ぶらりんだから納まりが悪い。きちんと決着をつけたいという余韻が残る。私は文章を書いていて、例えば、「桜の花が」で、意図的にペンを止めて、あえてペンディング状態を作っている。翌日、「咲きました」と、容易に続きを書き始めることができるからだ。
『18分集中法』を実行するのに、キッチンタイマーは必需品である。タイマーを18分に設定し、スタートボタンを押しさえすれば事は始まる。決断など不要である。タイマーは淡々とカウントダウンを始める。否が応でも集中することになる。18分が経つとブザーが鳴る。そこで、いったん終了する。
これだけである。たった18分でいいのか、と思うかも知れないが、これでいいのである。何もしないまま、気がつくと3時間が経っていたり、ダラダラしていたら一日が終わっていたということはよくある。わずか18分でも生産的な作業に向き合えたのだから上出来である。ゼロに比べたら無限大の価値がある。それに、よく起こることだが、この18分が呼び水となって、さらに次の18分に取り組みたくなる。18分はウォーミングアップであり、脳が刺激され、浮揚感が湧くのである。
身の回りには、やりたくはないけどやらねばならないルーティーンワークがたくさんある。「庭の草抜き」「物置の整理」「確定申告書の作成」「授業の教材作り」「英会話の予習」など。私は、こういった作業のすべてを、ほぼノー・ストレスで行っている。この文章自体も、『18分集中法』で書いている。一般に、暗記は脳を酷使する辛い作業だと思われているが、『18分集中法』なら気軽に手をつけることができる。肝心なのは最初の一歩を踏み出すことである。そして、その一歩はヘビー・ステップであってはいけない。慣性の法則に従って、ベイビー・ステップでなければならない。そうすれば事は動き出す。
●英会話の質がダイナミックに向上する
『英標』には、以下のような濃厚な内容の英文が並ぶ。わずか80語ほどの英文でさまざまな思想のエッセンスに触れることができる。
「消費が雇用を生む」「人は不幸でない限り幸福である」 「農業こそ国家の基盤である」 「民主主義を文化に持ち込むと文化は堕落する「言語と人々の関係は密接である」「われわれは見ることのできるものだけを見て、見なければならないものを見ていない」「誠実さは、人生と同様に文学においても徹頭徹尾、大切である」「英語をしゃべることは科学ではなく技術である」「よい文章とは具体的で短い」」「詩はことばを再創造する」「現代は狂気の時代である」「自分を愛せない者は他者を愛せない」「歴史とは行く手を照らしてくれる灯りである」「理解と見返りを望む芸術家は愚かである」など。
「いつ」「誰と」「どこへ行き」「何を見て」「何を食べ」「何をしたか」、を伝えるのは英会話のイントロに過ぎない。次に伝えるべきは、自分の「ものの見方」「感じ方」「考え方」である。自分は「こう思う」「こう感じる」「こう考える」を述べ、その後に伝えるべきはbecauseである。英会話は、突き詰めれば、whyとbecauseのやり取りである。いわばロジックの応酬である。「なぜ、消費が雇用を生むのか、because……」「なぜ、人は不幸でない限り幸福なのか、because……」「なぜ、農業は国家の基盤なのか、because……」「なぜ、文化は堕落するのか、because……」という具合である。『英標』の暗記は、思想そのものも学べるが、論理展開の型も、知らず知らずのうちに身に付く。そして、becauseの中身の抽象度は高い。関係詞whichや、接続詞thatを用い、分詞構文も使い立体的に英文を組み立てていく。
改めてこんなことが言える。『英標』を暗記することと、英語をしゃべることは、脳内活動がぴったり一致する。どちらも正確な再現性とスピード感を伴う。暗記で、次に続く言葉が出てこなければ、暗記は未完成ということになる。英会話においても、言葉に詰まり3秒も沈黙が続けば致命的である。英会話で3秒の空白は十分に居心地が悪い。リズムが崩れ、英会話のキャッチボールは、その時点で終了する。
●ものの見方が変わる
『英標』の暗記は、英会話の訓練に他ならない。込み入った内容をしゃべるときの表現形式が身に付くのは当然のことだが、それと同時に、特定の思想を何度も刷り込むことから受ける影響も大きい。一例を挙げれば、ヘミングウエイの「氷山理論」は、私のお気に入りの一節である。
The dignity of movement of an iceberg is due to only one-eighth of it being above water.(氷山の動きに威厳があるのは、その8分の1しか表面に現れていないからである)
「氷山理論」は、作家の文章でいえば、作家が自分が書いている事がらについて十分に知っていて省略しているのか、それとも十分に知らないから省略しているのかを、読者は見抜くというものである。
黒澤明は世界的に名声を博した映画監督である。ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグといった巨匠が黒澤を崇拝している。黒澤について、こんなエピソードがある。ある部屋の調度品にタンスがある。タンスの引き出しを開ける場面などない。だが、黒澤の指示で、引き出しの中には衣類が丁寧に収納されていたという。
また、映画・『椿三十郎』では、三船敏郎と仲代達矢の二人の剣客が対決する。加山雄三ら若手の侍たちは三船敏郎を師と仰ぐ。彼らが固唾をのんで行方を見守るなか、勝負は一瞬にして決着する。両者が刀を抜くやいなや、仲代達矢の腹から、おびただしい量の血が噴き出す。息を呑むクライマックス・シーンである。このときの撮影現場は、辺りいちめん血の海で、嘔吐を催すような臭いが漂っていたという。白黒映画だから、血は黒い液体を代用すれば済むことである。だが、黒澤はこのワン・カットのためだけに大量のニワトリの血を集めて使ったといわれている。
政治家の言葉の軽さ、教師の威厳のなさなど、世の中の胡散臭さの多くがこの「氷山理論」で説明がつく。実際に目の当たりにする物理的なリアリティだけがリアリティではない。その背後には、目には見えないとてつもなく大きなリアリティが潜んでいるかも知れないし、潜んでないかも知れない。いずれにしろ、われわれの感性はそれを見抜くのである。
●かみしめて味わう
現在、『英標』の暗記を50周して気づいたことがある。気づきというよりも静かな感動である。暗記しようとしている『英標』の英文については、知り尽くしている、と思っていた。しかし違っていた。次の一節を暗記していて、しばし時が止まり、もの思いにふけった。
―Many times a day I realize how much of my own outer and inner life is built upon the labours of my fellow-men, both living and dead, and how earnestly I must exert myself in order to give in return as much as I have received. My peace of mind is often troubled by the depressing sense that I have borrowed too heavily from the work of other men.―Albert Einstein
―私は、日に何回も、私自身の外的と内的との生活が、どれほど多く、現在や過去の私の同胞の努力の上に築かれているかということと、自分の受けただけの恩義を返すためには、いかに真剣に努力しなければならないかということをしみじみ感ずる。私の心の平和は、他人の仕事の結果をあまりに多く使用しすぎているという憂うつな気持ちによって、悩まされることがしばしばある。―アルバート・アインシュタイン
これまでこの一節を幾度となく読んできた。見事な英文だと思っていたが、心の琴線に触れることはなかった。名文を読んで頭で理解するのと、それを体で味わうのは別ものである。暗記の際に、いったん英文を咀嚼し、それを再構築し、口から出す。このプロセスのどこかで化学反応が起こるのかもしれない。我が身を振り返り、さまざまな場面で、さまざまな人から受けてきた、さまざまな恩義が頭のなかを駆け巡った。
『英標』の暗記は、始まったばかりである。この先まだ2、3年はかかりそうである。そうは思っていても、早く片付けてしまいたいという気持ちがどこかにある。The sooner, the better.(早ければ、早いほどいい)は、われわれが患う心理的な病である。ゴールの見えない道のりを、短距離走で走っては息が切れる。周りの景色を楽しみながらゆっくり歩んでいこうと思う。
Slow and steady wins the race.(ゆっくりでも着実なのが競争に勝つ)
(注)『新々英文解釈研究』『中3テキスト・サンシャイン』『英語の構文150』『日本的事象英文説明300選』『新・基本英文700選(駿台文庫)』『和文英訳の修業(500選)』『改訂・英作文の栞(620選)』『DUO3.0(560選)』
2024年11月12日