文明は人間を幸福にしたか・サピエンス全史
2人の受験生がいる。A君は、第1志望の国立大に受かり、彼女もでき、運良く宝くじで1億円も手に入れた。いっぽう、B君は、受験に失敗し、彼女にも振られ、交通事故にも遭い松葉杖をついている。絶頂期のA君と、どん底のB君とでは、幸福感にどれほどの差があるのか――こんな疑問にハラリは答えてくれる。
『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)は、世界60の言語で出版。売り上げは1600万部。どの章を読んでも、その博識に衝撃を受け、固定観念が覆され、視野が広がる。上下2巻の大著で、値段もそれぞれ1900円だから、高校生が手にするにはハードルが高い。そこで一つの章、幸福についての章を要約してみた。
同書(下)・第19章・「文明は人間を幸福にしたのか」は、原稿用紙でおよそ60枚分。これを12枚(1/5)に要約。
「何のために学ぶのか」「何のために働くのか」「何のために生きるのか」は、究極的には「幸福になるため」という答えに行きつく。それは個人的な幸福のこともあれば、周りの幸福、人類の幸福へと広がることもある。
この章で、ハラリは、およそ考えつくさまざまな切り口で幸福のメカニズムを分析する。「幸福とは何か」を知ることは、勉強に専念するうえでも、仕事に励むうえでも、日々の生活を送るうえでも、確かな指針になるはず。幸せになるために、幸せでない日常がくり返されるとしたら、どこかがヘンではないか。
以下はその要約。
●個人の運命はより過酷に
進歩が生活を向上させるとはかぎらない。農業革命で、集団の能力は増大したが、個人の運命はより過酷になった。
中世の農民は、狩猟採集民族よりも不幸だったかも知れない。農民は、種類も栄養も劣る食糧で生き延びるために、狩猟採集民族以上に働かねばならなかったし、搾取もされるようになった。
反進歩主義者は主張する。人間の能力と幸福度は反比例する。権力を持つと人は腐敗し、機械的で冷たい世界を築く。狩猟採集から、農業へ、工業へと移行したせいで、人間は本来の本能を存分に発揮できず、渇望を満たすこともできない不自然な生活を送るようになった。
都市生活者の喜びは、狩猟採集民族がマンモスを仕留めたときの熱狂的な興奮には及ばない。
私たちは、生態系の均衡を乱し続け、過剰な消費によって繁栄の基盤を損ないつつある。これは将来の大惨事の種を蒔いていることになるかも知れない。
サピエンスが成し遂げた偉業は、他の動物たちの犠牲の上に成り立つ。豊かさの大部分は、実験台となったサル、乳牛、ベルトコンベヤー乗せられたヒヨコの犠牲の上に築かれたもの。
工業化された農業は、何百億もの動物を犠牲にしてきた。動物愛護家から見れば、近代農業は史上最悪の犯罪ということになる。
●幸福度を測る
幸福とは、心の中で感じるもの。では、どうやって測るのか?
「聞き取る」という方法がある。「今の自分に満足している」「人生には大きな価値がある」「将来について楽観的だ」「人生は良いものだ」などの問いに対して、回答者は0~10で評価する。
興味深い結論は、富は一定の水準までは幸福をもたらすが、そこを超えると意味を持たなくなる。
年収1.2万ドルの人が、50万ドルの宝くじを当てればその幸せは長く続くが、年収25万ドルの経営幹部には、その喜びは数週間で消える。
病気は幸福度を下落させるが、継続的な痛みや悪化が伴わなければ、幸福度は維持される。
ルーシーとルークは中産階級の双子。ルーシーは事故に遭い一生残る後遺症を負う。ちょうどその日、ルークは1000万ドルを宝くじで手に入れた。2年後に、心理学者が幸福度の調査をすると、二人の回答は、あの運命の日の幸福度と同じだった。
●家族とコミュニティ
家族やコミュニティは、幸福に大きな影響を及ぼす。協力的なコミュニティに暮らし、強い絆で結ばれた家族を持つ人は、家庭が崩壊し、コミュニティーの一員になれない人より、はるかに幸せである。
貧しい上に病に臥(ふ)せっていても、愛情深い配偶者や献身的な家族、温かいコミュニティに恵まれた人は、孤独な億万長者より幸せだ。
物質面における改善は、家族やコミュニティの崩壊によって相殺される。現代人の幸福は、1800年代の幸福と変わらないかもしれない。
「自由」さえも不利に働くことがある。私たちは配偶者や友人を選ぶことができる。だが、相手も私たちを選ぶ。人生を自由に選択できるようになると、他者との関わりを持つことが難しくなる。コミュニティと家族が崩壊し、孤独感は深まる。
●幸せかどうかは「期待」によって決まる
幸福は、期待と条件との関係で決まる。
あなたが牛に引かせる荷車が欲しいと思い、それが手に入れば満足を得る。だが、フェラーリの新車が欲しかったのに、フィアットの中古車しか手に入らなかったら、自分を惨めだと感じる。
宝くじの当選が幸福に与える影響と、事故で後遺症を患うことが幸福に与える影響は、長期的には同じになる。
詩人や哲学者は、「持てるものに満足するほうが、欲しいものをより多く手に入れるよりもはるかに重要である」ことを何千年も前に見抜いていた。
現代人は、鎮痛剤を自由に使える。しかし、苦痛を軽減する「期待」が過度にふくらむと、不便さや不快に対する堪(こら)え性は弱まる。そのため、先祖よりも強い苦痛を感じる。
他人の幸福を推理するとき、他人の物質的な諸条件に自分の「期待」を押しつけるため、うまくいかない。
現代人は毎日シャワーを浴び衣服を着替える。だが、中世の農民は、何ヶ月も身体を洗わないし、衣服を着替えることもなかった。汚れで悪臭の漂う生活を想像するだけで、私たちは吐き気を催す。しかし、中世の農民たちは気にも留めなかった。
チンパンジーも身体を洗わず、けっして服を着替えない。ペットの犬や猫もシャワーは浴びないし、毛皮を取り替えたりはしない。だからといって、私たちはペットに嫌悪感を抱かないし、彼らを抱きしめ、キスさえする。
●「期待」はマスメディアによってふくらむ
あなたが、5000年前、老人と子どもばかりの小さな村で暮らす青年なら、自分をハンサムだと思うだろう。だが、あなたが現代のティーンエイジャーなら、今の自分には満足できない。あなたの比較対象は、テレビや広告で目にする映画スターやスーパーモデルだからだ。
クレオパトラの統治下のエジプト人に比べて、ムバラク政権下のエジプト人は、飢餓や暴力で命を落とすことはない。物質的な状況も良好。ところが彼らは怒りに燃えて蜂起し、ムバラク政権を打倒した。彼らが比べていたのは、クレオパトラ時代のエジプトではなく、オバマ政権下のアメリカだった。
アンチエイジングや再生医療が編み出されると、怒りや不安が蔓延する。死だけは平等だと思っていたのに、貧しいものは死を免れないのに、金持ちは永遠に若くいられるという考えに納得がいかなくなる。
●化学から見た幸福
化学的には、人間の幸せは、ニューロンやシナプス、さらにはセロトニンやドーパミン、オキシトシンのような生化学物質によって決定される。
宝くじが当たっても、新しい恋人を見つけても、お金や恋人に反応しているのではなく、その人は、さまざまなホルモンや脳内で起こる電気信号に反応しているのだ。
人間の生化学システムは、幸福の水準を安定した状態に保つようにプログラムされている。
進化の過程で、私たちは極端な不幸にも、極端な幸福にもならないように作られている。あふれんばかりの快感を一時的に味わえても、その快感は永続しない。それは遅かれ早かれ薄まり、不快感に取って代わる。
もしオーガズムが永遠に続くとしたら、幸福の絶頂にある男性は、食べ物に対する興味を失い飢え死にするだろう。
●ホメオスタシス
私たちの体には、体外環境が変化しても体内環境を一定に保とうとするしくみ(ホメオスタシス・恒常性維持機能)がある。酷暑であっても酷寒であっても、体温は一定に保たれる。
人間の幸福度調整システムも同じ機能を持ち、幸福度のレベルは一定の範囲内に保たれる。ただし、個人差はある。
その設定レベルが高い人は、大都会で疎外されても、株の暴落で一文無しになっても、糖尿病の診断を受けても、十分に幸せでいられる。
一方で、設定レベルが低い人は、コミュニティの手厚い支援を受けても、宝くじで何百万ドルを手に入れても、オリンピック選手のように健康であっても、ふさぎ込んだままでいる。
こういう人は、朝に、5000万ドルを手に入れ、昼に、エイズとガンの治療法を発見し、午後に、パレスチナとイスラエルの和平が実現し、夜に、生き別れになっていた息子と再会できても、幸福感を味わうことができない。
あなたの周囲には、どんなことが降りかかろうと、つねに楽しそうな人もいれば、どんなにすばらしい巡り合わせに恵まれても、いつも不機嫌な人もいる。
私たちは、新しい職を得たり、結婚したり、書きかけの小説を書き終えたり、新車を買ったり、住宅ローンが完済できさえすれば、最高の気分が味わえると考える。
だが、実際にそうした望みが叶っても、私たちの幸福感は少しも増さない。ほんの束の間、生化学的な変化は起こるが、体内システムはすぐに元の設定レベルに戻る。
既婚者は独身者よりも幸せだが、それは必ずしも結婚が幸福をもたらすことを意味しない。幸せだからこそ結婚できたのかもしれないからだ。
陽気な特性の人は、満足して暮らしている。そうした人は配偶者として魅力的に映る。陰気な配偶者よりも、陽気な配偶者と暮らすほうが楽だからだ。逆に、生まれつき陰気な特性の独身者は、結婚しても幸せになるとはかぎらない。
心のホメオスタシスは、あらかじめ設定された範囲内で推移する。感情の振り幅は、その上限と下限を超えることはない。
中世のフランスの農民と、現代のパリの銀行家を比べてみよう。農民はブタ小屋を見下ろし、暖房もない泥壁の小屋に住んでいる。一方、銀行家は、シャンゼリゼ通りを見下ろし、最新機器を備えたペントハウスに住んでいる。
私たちは、直感的に銀行家のほうが農民よりもずっと幸せだと考える。だが、泥壁やペントハウスやシャンゼリゼ通りが、私たちの気分を決めるのではない。セロトニンが決めている。
中世の農民が泥壁の小屋を完成させたとき、脳内にセロトニンが分泌される。現代の銀行家がペントハウスの代金を完済したときも、脳内にセロトニンが分泌される。ペントハウスが泥壁の小屋よりも快適であるかどうかは関係ない。肝心なのは、脳内にセロトニンが分泌されたという事実だ。銀行家の幸福感は、農民の幸福感を微塵も上回らない。
フランス革命は王を処刑し、農民に土地を分配し、貴族の特権を廃止した。だがこれはどれも、フランス人の生化学的特性までは変えなかった。革命は、社会的にも、経済的にも激変を起こしたが、個人の幸福に及ぼした影響は小さかった。陽気な生化学的性格を持つ人は、革命前も、革命後も同じように幸せだった。
幸せへのカギは生化学システムにある。莫大な資金を脳の理解と治療開発に投じれば、革命など起こさずに、人々を格段に幸せにすることができる。
●人生の意義
ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは、日常生活でどの瞬間がどれだけ楽しかったかを評価する研究を行った。子育ては、オムツを替えたり、食器を洗ったり、なだめたりと、相当に不快な労働だが、大多数の親は子育てこそ自分の幸福の源泉だと断言する。
このことは、幸福とは「快い時間」が「不快な時間」を上回ることではないことを立証している。幸せかどうかは、その人の人生全体が有意義で価値のあるものと見なせるかどうかにかかっている。幸福は、各人の価値観しだいで天地の差がつく。
ニーチェは言う。あなたに生きる理由があるのなら、どのような生き方にも耐えられる。有意義な人生は、困難のただ中にあっても極めて満足のいくものである。それに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない。
●汝自身を知れ
私たちは、「快」を幸福、「不快」を不幸とする。その結果、喜びを渇愛し、苦痛を避けようとする。しかし、「感情」は、波のように変化する心の揺らぎにすぎない。喜びを感じても、5分後には意気消沈する。
仏教では、苦しみの根源は、束の間の感情を果てしなく求め続けることにあるとする。喜びの感情を追い求めれば、つねに緊張し、混乱し、不満を抱くことになる。喜びを経験しているときでさえ、心は満たされない。その喜びがすぐに消えてしまうことを恐れ、喜びの持続と強化を渇望するからだ。
こうした喜びの感情を渇愛することをやめたときに初めて、人は苦しみから解放され、今この瞬間を生きることができるようになる。
ブッダが教えたのは、外部の成果の追求をやめ、内なる感情の追求もやめることだった。
仏教をはじめとする宗教や哲学では、幸せへのカギは、「自分を知ること」「自分は何者なのか」を理解することにある。
たいていの人は、自分の「思考」「好き嫌い」「感情」を自分自身と混同している。これらに囚われると、不幸に囚われることになる。
もしこれが事実ならば、幸福に関して私たちが理解していることは、すべて間違っていることになるかもしれない。
「期待が満たされるかどうか」や「快い感情を味わえるかどうか」は重要ではない。最大の問題は、「真の自分を見抜けるかどうか」だ。
狩猟採集民より、現代人のほうが「真の自分」をよく理解しているという証拠は存在しない。
2020年11月26日