寺子屋の精神性を取り戻せ
●なぜこんな事件は起こるのか
京都大学の中国人大学院生(27)がTOEICで替え玉受験を行い、現行犯で逮捕された。小型マイクを隠し持ち、試験中に外部とやり取りしていたという。当日は受験者50人のうち15人が欠席。その中には、解答を受け取る予定だった者も含まれていた可能性があり、不正の発覚を恐れて欠席したと見られている。(読売新聞 2025年5月21日)
実力が伴わないのに、手っ取り早く高得点を手に入れようとする——そんな思考が、なぜ生まれるのか。「結果さえ良ければ、それでいい」という価値観が、社会に蔓延しているのだろう。カンニングは、たとえ些細な不正であっても、積み重なれば感覚を麻痺させ、やがて犯罪へと転じる。小さな逸脱が、「これくらいなら」と正当化され、いつしか後戻りできない領域へと至る。われわれの心のどこかにその萌芽があるのだ。
●理解より得点(教育現場の実態)
ずっと心に引っかかっていることがある。マークシート式の4択問題で、生徒は答えがわからなくても、白紙のままにはしない。当てずっぽで③を選んだりする。そして、それが偶然にも正解だったりすると、心の中で「やった!」と叫ぶ。ちょっとした勝利感に浸るのだ。4択という形式がそうさせるのだから、後ろめたさを感じる生徒はいない。
だが、実際には答えがわからないにもかかわらず、点が取れてしまうのだから、ヘンな話である。それでも点数は点数である。生徒は自分はラッキーだと思う。奇妙な風景だが、マークシート式が主流の昨今では当たり前の風景である。
こんなことを続けていると、「結果」さえ良ければいいと考えるようになる。「学ぶ」ことの本質は、「理解する」ことであって、「得点する」ことではない。しかし、実際は、「得点すること」が優先され、「理解すること」は、そっちのけにされる。
ある高校では、教師さえも記述試験の「講評」でこう記している──「多くの生徒がわからなくても、空欄にせず果敢に解答していた点がよかった。わからなくても何か書くことが大切だ」と。
つまり、でたらめな訳文であっても、とにかく何か書けというわけだ。でたらめでも量を書けば、部分点がもらえるかもと、さもしい点数稼ぎを推奨しているのだ。だが、「でたらめ」をいくら並べても、それは「理解」とは無縁である。
●点数について
今から30年以上前、「共通一次試験」にwilderness(荒れ地)の発音を問う設問があった。かなり珍しい語だったため、今でも記憶に残っている。正しくは「ウィルダネス」と発音するが、仮に「ワイルダーネス」と発音したとしても、まず間違いなくネイティブには通じるだろう。さしたる意味のある問いとは思えなかったが、この設問の配点は2点だった。
点数とは、出題者が恣意的に割当てた、ただの数値である。絶対的な価値を示すものではない。こんな例えに置き換えることができる。
エンピツは4点、ケシゴムは2点、ペンケースは6点。合計は12点、平均点は4点。ペンケースが最も点数が高く1位である。
この例で示したいのは、数字は恣意的で、足したり、割ったり、加工すればするほど意味を失い、一人歩きするということだ。点数は、ただの記号に過ぎないのだ。
●テストの採点に明け暮れる教師
先に述べた教師のいる高校では、4月から12月にかけて、高3生は実に膨大な数の試験を受けることになる。定期試験は4回、校内模試が5回、さらに全国模試が数回――合計すれば、ほぼ2〜3週間に一度は試験を受けている計算になる。まさに異常といってよい頻度である。いったい、教師はいつ教え、生徒はいつ勉強するのか。
皮肉を言えば、これほどまでに試験を重視するのであれば、英語教育に携わる教師自身が率先して英語の能力試験に挑み、その背中を生徒に見せてはどうか。「英検1級を取得した」「TOEICで高得点を獲得した」「通訳案内士の試験に合格した」――こうした実績を持つ教師がこの高校にいるという話は、寡聞にして聞いたことがない。だらしない教師、無気力な教師については、『穴の空いた靴下を履く教師』『まったく勉強しない英語教師』を参照。
●「スピード」や「量」を優先する勉強は空しい
われわれは資本主義社会のなかを生きている。企業は、今年の業績が100であれば、翌年は110を目指す。資本主義が拠り所としているのは、「速ければ速いほどいい(The faster, the better)」「多ければ多いほどいい(The more, the better)」である。
こうした企業理念を生徒の意識に刷り込んでいるのが、「共通テスト」だ。受験生は限られた時間で、膨大な問題をこなすことを求められる。だが、その内容は深い知的理解からは程遠い。ただ反射的に正解を選ぶ訓練に過ぎない。まるで機械の性能を試す試験なのだ。その過程で生まれるプレッシャーとストレスは計り知れない。人間は機械ではないのだ。
このプレッシャーとストレスが、高校生活を暗いものにしている。塾では、あれほど明るかった高1の教室は、高3になると、曇り空のように重く沈んだ空気に包まれる。だが、問題は雰囲気だけにとどまらない。多くの生徒が「共通テスト対策」に追われるあまり、英文そのものを読む力を失ってしまうのだ。離乳食ばかりを与えられていると、いつの間にか固形物を噛む力を忘れてしまうのだ。100メートルのスプリントと42.195キロのマラソンでは、走り方も鍛え方もまったく違う。両者は相容れないのだ。
このような試験に晒され続けていると、学ぶことの本質が見えなくなる。「なぜ学ぶのか?」と問われれば、その答えは、「学ぶ」ことが「楽しい」からである。嫌な勉強を続けていると、大学に入ったとたん、学ぶことをやめてしまう。学ぶために入ったはずの大学なのに、授業をサボったり、休講になると喜んだりするのだから、明らかな矛盾である。
●凡人との違い――灘高・開校以来の天才
こんなユーチューブ・ビデオを観た。東大医学部の岡田康志教授は、灘中・高時代、30万ページの本を読んでいたと言われている。中3で受けた東大模試で、理ⅢがA判定。高3で受けた全国模試は、全科目で全国1位。
灘高で同級だった東大医学部の教授は言う。「岡田くんは受験勉強なんかしていなかった。ガリ勉ではなく、いつも余裕があり、大学の教科書のようなものを読んでいた」「共通一次のような簡単な試験ではよく点数を落としていた。でも東大模試のような難問の試験では、2位に圧倒的な差をつけてダントツの1位だった」
岡田教授自身はこう話す。「実はこの話をすると皆から呆れられるんですが、駒場時代は月曜から土曜日まで、全コマを埋めました。いくら単位を取っても学費は変わりませんから、トクじゃないですか。1年に100単位以上取ったんじゃないかなぁ。外国語も必修は第2外国語までですが、第2外国語でドイツ語を取って、そのほかにフランス語、ラテン語、ギリシャ語を取って、政治学も哲学も、とにかくおもしろそうな授業は全部受講しましたね。成績はたしか、平均が90数点じゃなかったかな」
ちなみに、一般的な大学の卒業に必要な単位は124単位。つまり岡田教授は、1年ちょっとで<大学4年分>に匹敵する科目を学び、吸収していたことになる。
●寺子屋の精神性を取り戻せ
やりたいからやる勉強、面白いからやる勉強と、「点数」や「偏差値」を目標にした勉強とでは、こうも違うのである。人は、勝負に勝つために勉強するのではない。楽しいから学ぶのである。成長したいから学ぶのである。
「点数」など、気にせず、ゆっくり、じっくり、自分のペースで学べばいい。理解に時間がかかってもいい。すぐに結果が出なくてもかまわない。学ぶという行為は、本来、急ぐものでも、競うものでもない。学びとは、人生を豊かにする終わりのない「旅」であり、他人と争う「レース」ではないのだ。
江戸時代にあった寺子屋の数は全国で、1万とも1万5千とも言われている。そこでは、「読み」「書き」「そろばん」を学び、試験などなかった。農民や町人の子どもが、学びたいという自らの意思で学んでいた。当時の識字率は、世界的に見ても高水準だったと言われている。
いまこそ、公教育は、試験偏重から脱却し、寺子屋の精神性を取り戻せ、と言いたい。
2025年5月27日