国語力を上げる方法
●見事な論文
「国語力をつけるにはどうすればいいか」「たくさん読んで、たくさん書け」では素っ気ない。その問いに、具体策を持って応えてくれる見事な論文がある。
山崎正和「『論理国語』新設―言語力あっての表現力」(本文はこのコラムの末尾に)
本文は2621字の長文。これを約300字、およそ10分の1に要約してみた。
「文科省の新しい学習指導要領の目玉は『論理国語』。しかし、新政策の内容は浅薄で危うい。言語活動は1対1の相手に向かうのではなく、話者と複数の相手との営みのこと。だからこそ書き言葉が重視される。この原則を前提に、2つの方策を提案する。1つは、文章でものごとを描写する訓練。たとえば、人力車を見たことのない人にそれを文章で伝える。もう1つは、文章を要約する訓練。要約を通して、生徒は、人が言葉を通してどのように考えるか、他者に伝えるためにはどのような順序で考えなければならないかを学ぶ。2つの教授法にとって不可欠なのは本を読むこと。高校生には、教科書以外の本を3年で100冊を読むことを奨励したい」
山崎氏は、文科省の新指導要領に苦言を呈し、「文章でものごとを描写する訓練」と「要約の訓練」の2点を高校生に提示する。最後に「3年間で100冊の本を読め」と締めくくっている。
「描写」と「要約」は、高校生がその気になりさえすれば個人的に実行できる方策であり、「100冊読め」も、具体的な数字が伴う強力なメッセージになっている。
●誰にでも分かるように描写する
ものごとの描写について、手本になる文章がある。志賀直哉『城の崎にて』に、蜂の死骸を描写したくだりがある。
ある朝の事、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。ほかの蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきを這いまわるが全く拘泥(こうでい)する様子はなかった。忙しく立ち働いている蜂はいかにも生きている物という感じを与えた。そのわきに一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずにうつむきに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。淋しかった。ほかの蜂がみんな巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。しかし、それはいかにも静かだった。
もう一つ、描写について印象に残っている文章がある。上田篤『五重塔はなぜ倒れないか』。著者は建築学者で、五重塔の複雑な耐震構造の仕組みを素人にでも分かる文章で描写している。
柱や梁(はり)などの軸部や組み物は、たいてい釘(くぎ)などを用いず、凸状に作られた突起が凹状に掘られた穴に差し込まれるような形で接合されている。そのため、接合部にはわずかなゆとりがある。このゆとりのある「差し込み接合」のおかげで、地震の揺れが建物に伝わったとき、小説『五重塔』にあるように、各接合部は音を立ててきしむ。が、きしむときに生じる摩擦などによって、地震のエネルギーは少しずつ減っていくのだ。五重の塔全体には、このような「差し込み接合」が千ほどもあるといわれるが、これらの接合部が多ければ多いほど、地震のエネルギーは減少していくのである。
文章は、「自分の感想や意見を述べるためにある」のではなく、「ものごとを他者に正確に伝えるためにある」。こう考えた方が、文章を書くことの意義に納得がいく。「美しい文章」を書くことよりも、誤解を生まない「正しい文章」を書くことを心がけた方がいい。毎日読む新聞のニュース記事は、起こった出来事の正確な記述に他ならない。
●描写の練習
「描写」の練習方法はいくらでもある。1+1=2という数式を文章にしてみる(部屋に1人いて、もう1人入ってくると2人になる)。A地点からB地点への道順を文章で伝えてみる。モナリザの絵を文章で描写してみる。4コマ漫画を文章で説明してみる。
もっと簡単で実用的なところでは、四季の風物詩「七夕」「盆踊り」「ゆかた」を文章で説明してみる。これらは外国人と話していて話題になることが多い。他に「初詣」「神社」「お寺」「さい銭箱」など。さらに突っ込めば「神社」と「お寺」はどう違うのか、など。
これらを日本語で描写することができないとすれば、外国人に英語で説明することなど、とうていおぼつかない。「英会話力」は「描写力」ともいえる。英会話の練習をいくらやっても、そもそも日本語で説明できないものを英語で説明できるわけがない。
●英文法を文章で説明する
さらに高校生に特に勧めたい課題がある。それは「英文法」の文章による説明である。かなりレベルの高い英文法の学習法でもある。
「不定詞とは」「動名詞とは」「分詞とは」「受動態とは」「現在完了とは」「関係代名詞とは」「仮定法とは」。こうした英文法の柱となる項目を文章で説明してみる。これらの文法事項は、体系的に順序立てて頭に入っていなければ、断片的なフレーズを並べるだけに終わってしまう。とうてい第三者に伝わる文章にはならない。そこには個人的な感情や意見など入り込む余地はない。「感想文」ではなく、ひたすら正確な「説明文」でなければならない。
試しに、「時、条件の副詞節の中では未来を表すwillは使えない」を、周りの友達に分かるように400字で説明してみるといい。これは高1英文法のハイライトだが、分かっている高校生は3割にも満たない。残りの7割は分かっていないから、練習相手には事欠かない。友達に感謝されるだけでなく、自分自身の英文法の理解が深まり、なによりも言語力をベースにした表現力が磨かれる。
●最後に読売新聞に載った記事の全文を掲載しておく
「論理国語」新設 ―言語力あっての表現力―
劇作家 山崎正和
1934年、京都生まれ。日本芸術院会員。大阪大学教授、東亜大学学長、中央教育審議会会長、サントリー文化財団副理事長などを歴任。2018年に文化勲章を受章
「今日も雨だ、天気が悪い」という一文を読んで、これは論理的な文章であり、後段は同義語の反復だと解釈する人は、国語が分かっているとは言えない。前段は確かに叙事的な表現だが、後段の真意は「だから鬱陶しい」「気が滅入る」という叙情的な感想だと読むのが、常識だろう。
文部科学省は、生徒の論理的な国語力の向上を目指す傍ら、主体的な表現能力の育成を図るとして、2022年度から高校国語の新しい学習指導要領を実施する。その目玉が選択科目「論理国語」の新設で、従来の名文読解の指導、教師が読み方を教え込む教育から、生徒に考えさせる教育への転換だと言われる。これには文学関係者の危惧が強く、特に近代文学の名作の軽視につながるという批判が、文学を研究する16の学会から出された。
だが、冷静に考えると、新政策の真の問題点は、その結果、夏目漱石や森鴎外が忘れられるということにあるのではない。文豪は知らなくても、正確に企業の報告書が書け、新聞記事が読める人材が増えれば、公教育の最低基準は満たされたと言えるからである。むしろ大問題は、文科省そのものが言葉の本質を正確に捉え、現場の教員に迷いない言語観と教育法を伝えているかどうかにある。
危うさは、すでに「論理国語」という用語法自体に表れている。百歩譲ってそれを叙事的な言葉と理解しても、それと反対語の叙情的な言葉との関係は、冒頭に述べたように複雑微妙である。一方、大衆的な流行語は「カワイイ」とか「ヤバイ」とか、情緒的な述懐の氾濫を見せている折から、「論理国語」がその撲滅を意図しているなら理解できるが、そういう気配も感じられない。
何よりも文科省の言語観の浅薄が感じられるのは、生徒の表現能力を過信し、自由な発表活動を教育の中心に据えようとしていることである。人間は自由に感じたり、考えたりしたことを話すのではなく、まず言葉を与えられ、それによって物事を感じ、考える存在であることが、ここではまったく忘れられている。さらには、表現という営みが極度に安易に捉えられ、言葉を知らない乳幼児でもできる、むずかりや甘えと同程度にしか理解されていないと言うべきだろう。
乳幼児のむずかりや甘えは1対1の相手に向かい、肉体能力の届く範囲において直接的に発せられる。その際、コミュニケーションの責任はもっぱら相手にあって、乳幼児が誤解の責任を取ることはない。実は言語活動はあらゆる点でこれと正反対の構造を持ち、人に正反対の努力を求めるものなのである。
●読解力向上 教育の責務
言葉は、本質的に1対1の伝達ではなく、当の相手のほかに第三の傍聴者を予定している。直接に声の届く範囲を超えて、誰が立ち聴いても分かることを理念的な目標としている。かねて私はこれを「対話」に対する「鼎話(ていわ)」活動と呼んできたが、言いかえれば言葉はただの発信ではなく、話者と複数の相手との共同体を作る営みなのである。
だからこそ、世間では相手の見えない書き言葉が重視され、書き言葉は無限定な相手に向けて、あたかも独り言のように書かれる。もし誤解が生じれば責任の大半は発信者が取ることになる。また、共同体の維持を目的とすればこそ、全体に通じる「正しい言葉」を使うという観念も生まれ、各個人もその言葉に従って、感じたり考えたりし始めるのである。
これだけの原則を前提とした上で、しかも文部科学省の真意も忖度そんたくしながら、今、どのような国語教育改革が提案できるだろうか。近来の動向から察するところ、文科省の本意は、実社会の役に立つ国語教育を目指す、という点にあるとみられる。文豪の高尚な叙情や哲学ではなく、簡明で実用的な文章を教えたいということではないだろうか。それなりに肯けない話でもないので、だとすれば私も言葉を業とする身の責任感から、ここで二つの実現可能な方策を提案してみようと考えた。
第一は、昔、福沢諭吉が慶応義塾の生徒に教えたこと、文章でものごとを描写させる訓練である。福沢はどこにでもある人力車を取り上げ、それを見たことのない人に分かるように文章で描けと命じた。そこには情緒も哲学も入る余地はなく、ひたすら即物的で、しかし多様な語彙ごいの柔軟な駆使が求められる。
私はこれを現代の高校に導入するのは効果的であって、極めて容易であると考える。たとえば教室を二つに分けて、一方に風景や事物を言葉で描かせ、他方にそれを読ませて絵に再現させる。その上で両者に結果を比べさせて、異同を討論させるのである。
教師の仕事は、語彙不足の生徒に助言をすることと、最後の討論の司会をすることのほかに多くはない。一方の生徒の言葉が他方にどれだけ通じたかを計るとともに、作文力と読解力を同じ場所で同時に比較することによって、成績判定もこれまで以上に客観性を帯びるだろう。
もう一つ勧めたいのは、長い文章を要約する練習である。対象の描写が言葉による観察の力を高めるとすれば、長文要約は人の考える力が言葉を通じてどのように働くかを教える。ただの思いつきを言い捨てるのとは違って、共同体の共感と同意を得るために、人はどんな順序で考えを進めなければならないかについて教える。結論の出し方によって逆に導入部の入り方が決まり、中間部の山の高さは全文の終わり方によって変わる、といった文章の妙味を、生徒はこの勉強から学ぶだろう。
この場合も教室で必要なのは、課題文に対する性急な批判や評価ではなく、もっぱら正確な読解と要約だけである。もちろん教材は慎重に選ばねばならないが、目標はあくまでも国語力の向上にあって、生徒の自己顕示欲の刺激にはないことを忘れてはならない。その上で、ここでも生徒同士の相互比較、要約の示し合いと討論を奨励すれば、教師の負担増なしに教育効果は上がるだろう。
二つの教授方法を提案したが、どちらにとっても不可欠なのは本を読むことである。国語は「読む、書く、話す」の3要素から成ると言われるが、最も重要なのは比較の余地なく読むことである。理由は、乳児のむずかりから最も遠いのが読むことだからと言っておこう。発信は言葉がなくてもかろうじて可能だが、読み解いて理解することは言葉の独擅場(どくせんじょう)である。
国民の読書量が激減していると言われる現代、せめて高校生には教科書以外の本を年に30冊、3年間で100冊を読むことを奨励することが、公教育の責務ではなかろうか。
地球を読む・読売新聞 2020/04/20
2020年7月14日