共通テストはもうオワコン
コロナ感染症で、大学入学共通テストはオワコン(終わったコンテンツ)になる。50万人もの受験生が全国各地で一堂に会して統一試験を受ける風景はもはや想像しがたい。集団感染の危険を冒してまで国家プロジェクトとして巨大なイベントを行う意義はどこにもない。
これまでセンター試験廃止を訴え続けてきて久しい。ここでかつうら英語塾が今までウエブ上で主張してきたセンター試験廃止の論点を整理しておこう。
●難問・奇問は言葉のあや
センター試験の前身、共通一次試験が始まったのは、31年前の1979年。高校教育の範囲を超えた難問・奇問の排除がその目的の一つだった。
しかし、それまで数十年にわたって、国公・私立大の英語入試問題に目を通してきて、難問・奇問などお目にかかったことはなかった。難問といっても解くのに思考のエネルギーがいるだけで悪問ではない。 難問・奇問のレッテルは、実証性の乏しい言葉のあやに過ぎない。
そもそも大学側が、将来、自分のところの大学生になるかもしれない受験生を困らせてやろう、いじめてやろうなどと考えて、難問・奇問を出題するはずがない。共通一次試験前の記述問題は極めて真っ当なスクリーニング・テストだった。
●マークシート方式は茶番
マークシートで解答に困った受験生はどうするか。白紙で答案を出したりはしない。ダメもとで適当な番号を書き、正解すればラッキーと考える。もし分からなければ「解答できない」が正論だが、そんなバカ正直な受験生はいない。
AIが、2019年のセンター英語で185点を得点したという記事があった(「AI時代 読解力で生きる」2020年3月22日読売)。センター英語は200点だから92.5%の正答率。偏差値でいうと64。これは上位8%を意味する。100人いれば、上から8番目ということ。ほんの数年前まで、AIは偏差値57、すなわち上位20%のところにいたからAIの進化は目覚ましい。
ここでAIがいかに優れているかを言いたいのではない。AIは問題の意味が分かって解答しているのではない。過去の英語試験のビッグデータをもとに、確立と統計を駆使して解答しているに過ぎない。
マークシートは記号や番号が合いさえすればいい。受験生の中にも、AIと同様に問題の意味も分からず解答している生徒はたくさんいる。受験生の能力を測る妥当なテストとはいえない。
受験生の能力とセンター試験の成績は必ずしも一致しない。現場で英語を教えている身として、皮膚感覚では50点ぐらいの開きがある。190点の実力のある生徒が140点だったり、100点の実力しかない生徒が150点だったりする。実力では190点>100点の関係が、本番では140点<150点となる。日常と本番で、その優劣が逆転する。「能力」と「測定値」がこんなにもズレる試験に受験生は翻弄されている。
●そのプレッシャーはすさまじい
毎年1月になるとマスコミは冬の風物詩のようにセンター試験の到来を報じる。しかし、マスコミの脳天気な報道とはうらはらに受験生は極度のプレッシャーと緊張にさらされる。
こうした緊張を強いられる最大の理由が、センター試験の出題形式にある。センター試験では基礎的な問題が大量に出される。大量の問題を短時間で解かなければならない。ゆっくり考えているヒマはない。解くのにスピードが要求される。スタートから猛ダッシュで駆け抜けるスプリンターのような瞬発力がいる。
学力とは別に、集中力と素速い処理能力がいる。解答欄を間違えたり、塗りつぶしのミスを犯すと得点できないから、注意力もいる。
ここでは具体例は省くが、問題文を読むのは途中まで、あとは選択肢にザーッと目を通すだけで解答できるものもある。また、文章など読まなくても、選択肢の配列と形式を見ただけで解答できるものもある。さらに、それを指南するマニュアル本さえある(『例の方法』学研プラス)。
これこそがAIがやっていることである。「集中力」「処理能力」「注意力」はAIがいちばん得意とするところ。大量の丸暗記(ビッグデータ)と反復訓練を重ね、処理速度(CPUのスペック)を上げれば、学力とは無関係に得点は上がる。
昔の京大入試の数学で、3問のうち最後の難問だけを解き、その独創性で合格した受験生がいる(『学力があぶない』岩波新書)。しかし、マークシートには、記号と数字が無機質に並ぶだけで、そこからは思考過程も、独創性も個性もうかがい知れない。
センター試験は、「どんな手段であっても、どんな考え方をしようが、得点できればいい」と考える学生を生む。これを社会人に当てはめれば、「仕事は、情熱や興味、社会貢献などなくてもいい、稼げさえすればいい」という考えと符合する。
青空のもと自然を相手に農作業で収入を得る人がいる。一室に閉じこもりモニター画面にへばりつき、パソコンの端末をいじって稼ぐデイトレーダーがいる。どちらが社会に貢献しているかは言うまでもない。
●何でも測れると思うな
『測りすぎ』(みすず書房)は、AI化、デジタル化の波に警鐘を鳴らす。「測定できるものが重要なわけではなく、重要なものすべてが測定できるわけではない」「いったん測定に執着すると、測定は多ければ多いほどいいという信仰を生む」「数値化された測定はさらに多くのデータを要求する」「測定によって主観が排除され確実性のよりどころとなる」
「成果主義」にとって「数値化」は魅力的な手段だが、数値目標を達成しようとすると「イノベーション」や「独創性」は育たない。知識は、「定式化できるもの(認知能力)」と、「経験に基づくもの(非認知能力)」の2つに区分され、後者は数値化できない。
同書はこんな例を挙げる。「外科医が手術の成功率に基づいて報酬が決められると、成功率を上げるために、重篤な患者の手術は拒否するようになる」「何年もかけて大物の麻薬王を1人検挙するよりも、小物の麻薬密売人をおおぜい検挙する方が検挙率が上がる」「幼児に英語や算数のテストを受けさせると、創造的な遊びなど、幼児の発達に寄与する活動が犠牲になる」「生徒の成績によって学校の存続が左右される場合、教師や校長は生徒の成績を書き換えることさえある」
●内申書は編集されている
成績の書き換えは、日本でも当たり前に行われている。成績が4.5以上ならA大学、4.0以上ならB大学にと、成績に応じて大学への推薦枠が決まる。
5や4をつけるのは教師の裁量だからどうにでも操作できる。1をつけると、補講や追試という面倒なアフターケアーが必要になる。そこで教師のなかにはあらかじめ問題や解答を教えておく教師もいる。こういう教師に当たれば、よほど意欲のない生徒でない限り1をとることはない。
生徒は解答を丸暗記して試験に臨めばわけなく4や5がとれる。そんな実力のない生徒が推薦枠で大学に進学すると悲劇に遭う。大学の授業についていけないのだ。チューターや大学院生が個別に補講するが、それでも手に余る生徒は、大学からも見放され退学という憂き目を見る。
当の高校は以後の推薦枠を取り消される。しかし、高校側は自らの指導力不足や内申書の編集には目をつぶる。〇〇大学に〇〇人合格というデータに興味はあっても、卒業生のその後に関心はない。
5文型すら分かっていない受験生が後を絶たない。実力の伴わない数字だけの判定で卒業を認定していいのかと言いたくなる。
●点数はフィクション
「英」「数」「国」という3教科の得点を合計するのは、「体重」「身長」「年齢」の3つの数字を合計するのと同じ意味で荒唐無稽。
体重59キロ、身長172センチ、年齢18歳。合計は249。平均値は83となる。この平均値をもとに偏差値が算出され、A判定~E判定に至る合否が下される。
得点の大もとをたどれば点数化の恣意性に行き着く。語彙力は2点、リスニングは3点、読解力は6点と勝手に点数が割り振られる。この点数の恣意性は、電信柱は2点、横断歩道は3点、歩道橋は6点という恣意性となんら変わらない。
数字は加工すればするほど実態からかけ離れていく。虚構は虚構を生み、虚構であるにもかかわらず大手を振って独り歩きを始める。
●その日は近い
コロナ問題は、否でも応でも、ものの考え方を大きく変える。当たり前だと思っていたものが当たり前でなくなる。資本主義が前提とする集団による「大量生産」「大量消費」にはストップがかかる。これからは、「どこに住むか」「どこで働くか」「どこで学ぶか」が大きな問題となる。
もし経産省が、「上場企業に入社を希望する者は、経産省が管轄する共通試験を受験しなければならない」と言い出したら物笑いになるだろう。文科省は31年間それをやってきた。
個性や独創性が叫ばれるなか、画一的な共通試験はその存在意義をすでに失っている。各大学は独自の個別入試を行い、「わが大学はこれこれしかじかの能力を有する学生を求む」と堂々と意思表示をすればそれですむこと。
公教育の現場では、「キリツ、レイ、チャクセキ」という「号令」や「制服」といった意味のよく分からない前時代の遺物がいまだに残っている。コロナ問題を機に、これらとともに共通テストが一掃される日は近い。
2020年6月4日