まったく勉強しない英語教師
●中身のないゴタクが並ぶ「試験の講評」
「英語の勉強を一生懸命やればやるほど、ますます成績は上がります」と聞いて、あなたはどう思うだろうか。これは、ある高校の高2の校内模試(2025年1月)の「講評」から採ったものだ。
「へえー、そうなのか。英語は一生懸命やると、ますます成績が上がるのか。ちっとも知らなかった」とは、小学生でも思わないだろう。やっても、やっても伸びないのが英語である。英単語など、覚えては忘れるのくり返しである。少しサボればすぐに英語力は落ちる。一生懸命やっても挫折するのが英語なのだ。しかし、この教師は「英語は、やればやるほど伸びる」と、うそぶく。さぞかしこの教師の英語はすばらしいものなのだろう。
「講評」は、「冬休みはいかがでしたか」と、愚にもつかない時候の挨拶で始まる。その後、「今回のテストで結果が出た人もいれば、そうでない人もいる」と続く。これは、「健康な人もいれば、不健康な人もいる」「幸せな人もいれば、不幸な人もいる」と同じくらい、どうでもいい話である。さらに、「受験に向けて準備をすること……」「毎日の積み重ねが……」「毎日コツコツ学習して……」「リスニングは日々練習を……」と、取り立てて意味があるとは思えない紋切り型の言葉がだらだらと続く。
この後に続く個々の問題解説も同様に、中身がカラッポである。「リスニングは、質問文に対応した部分を追うことが大切」(当たり前である)、「要約問題は大意を正しく理解し、何が言いたいかを端的にまとめること」(当たり前である)、「できている人とそうでない人の得点差が大きかった」(当たり前である)「勉強していた人は良くできていた」(当たり前である)など、コメントのほとんどが笑い話で、「雨の日は天気が悪い」としか言っていないのだ。
●解説する能力がない教師
こんな陳腐な「講評」を、生徒はまともに読んではいない。冒頭に挙げた「やればやるほど、ますます……」の後には(←英訳できる?)、と生徒を小バカにしたような言葉が、( )付きの矢印で補足されている。ある生徒は、イラッとすると言っていた。
この教師は、「the比較級構文」を使って英作できる自分の英語力が誇らしいのだろう。「あなたたちは、こんな簡単な英作もできないでしょう」、という幼稚な優越感が透けて見える。
この模試の平均点は30点ほどである。裏を返せば、生徒は7割の問題ができないのだ。このできなかった問題についての唯一の解説らしきものが、この中身のない「講評」なのだ。形だけの「講評」を書き、ケアしているフリをしているのである。保護者やPTAに対する、体のいいアリバイ作りなのだろう。要するに、「出しっぱなし」で、後は知らんぷりなのだ。生徒を真面目に教えようという気概は見えない。ろくに読まれもしない「講評」をせっせと書き、自ら無意味な作業をつくり出し、それでいて教員は過重労働だと言ってぼやいているのだから哀れであり滑稽である。
こうも言うことができる。アフターケアをしないのは、解説ができないからである。解説する能力がないのである。自分で出した問題であっても、自ら作成したものではない。入試問題から適当に見つくろったものをコピペしたものなのだ。したがって、「どういう概念の問題か」「何を意図した問題か」が皆目わかってない。概念も意図もわかっていない問題の解説などできるわけがないのである。
一例を挙げておこう。「講評」はこう言う。「talk 人out of doingは必ず復習しておいてほしい」。たったこれだけである。呆れるほどそっけない。解説する力がないのである。この部分を生徒に理解させたいのなら、たっぷり原稿用紙1枚分の解説が要る。「talk 人into doingとは、どう違うのか」「違いを知るにはSVOCの第五文型の理解が前提となる」「talk以外にも、persuade、cheat、deceive、fool、bluffなどがこの動詞型をとる」
教師の英語力が乏しいことや生産性が低いことは、これまでも以下のブログでさんざん指摘してきた。『生徒を苦しめるだけの校内模試』『こうして英語難民が量産される』『ちゃんとやればうんと伸びるの愚』『英語力も国語力もない英語教師』
●教員採用試験のレベルが低すぎる
書店の資格試験のコーナーに、教員採用試験の過去問題集がある。目を通して驚いたことがある。採用試験のレベルが低いのである。「発音」「語句」「文法」「読解」「英作」と、内容も出題形式も大学入試と同じなのである。「難易度は」と言えば、中堅の国立大学レベルといったところである。高校で教える教師の英語力が、受験生レベルなのである。
言い換えれば、「教える側」と「教えられる側」の英語力に差がないのである。要するに、高校の現場は、顔と体と年齢だけが大人の高校生が、同じ高校生を教えているのである。先に挙げた「英訳できる?」の言葉からも、生徒と「比べっこ」をする教師の心理が伺える。教師の精神性も、生徒と同じレベルなのである。クラスで生徒に、アイスを配ったりチョコを配ったりする教師がいるというのもうなずける。知性で勝負できないから、ポケットマネーで生徒の歓心を買おうとするのだろう。陳腐な「講評」も、高校生が書いたものだと考えれば、「そんなものだろう」と納得がいく。
採用試験では、こんな問題も出題されていた。『チョムスキー』と『Deep Structure』を結びつけさせ、人名と概念の組み合わせを問うものである。これは『漱石』と『こころ』、『鴎外』と『舞姫』をマッチングさせるのと同じだ。しかし、こんなマッチングができたところで、実際に教える際には何の役にも立たない。もしチョムスキーの理論を問うのであれば、次のような実践的な問題を出題すればいい。「Who do you think loves John?を変形生成文法を使って説明せよ」と。
簡単に言うとこうなる。
1.「Who do you think loves John?」の深層構造は「I think “Nancy” loves John.」。この文が元になり、与えられた英文が生成される。
2.「I think “Nancy” loves John.」において、”Nancy”の代わりに疑問詞”who”を取り入れ、「I think “who” loves John.」という文を想定する。
3.この文は次のように疑問文へと変形される。”who”は文頭へ移動され、疑問詞”who”の移動によって倒置が起こり、代動詞doが挿入される。
4.以上の変形プロセスを経て、「Who do you think loves John?」(誰がジョンを愛していると思うか)が生成される。
私は、変形生成理論の専門用語に頼ることなく、この理論を伝統文法の解説に取り入れている。生徒の理解を深めるための補助として大いに活用している。
昔、都内の予備校講師の採用試験を受けたとき、白紙の問題用紙には、たった一言、「不定詞を説明せよ」とあった。今なら、答案用紙いっぱいに参考書レベルで完璧に書くことができるが、40数年前の当時であっても、それほど的外れの答案ではなかったと記憶している。そうでなければ、高校ではごまかせても、予備校では通用しない。
教員採用試験は、抽象度の低い語句のマッチングなどでお茶を濁すのではなく、もっと抽象度を上げるべきである。「分詞構文を説明せよ」「仮定法を説明せよ」「関係代名詞を説明せよ」など、実践に即した問題を出題し、知的レベルが劣る教師をスクリーニングすべきである。
●まったく勉強しない教師
家庭科を担当する県立高校のベテラン教師がこう言っていた。「通勤に往復2時間、学校にいる時間が12時間、朝7時に家を出て帰宅は夜の9時」。教師の仕事はそれほど多忙らしい。家庭科は受験科目ではない。それでも帰宅してから、翌日の授業の準備があるそうだ。
英語教師も同じような生活なのだろう。24時間のうち、通勤と学校にいる時間を足すと14時間。さらにそこから睡眠時間や他の生活時間を差し引くと、残りはほぼゼロである。どこに英語を学ぶ時間があるのか。
高校教師は、「多忙」や「過重労働」を口実にまったく勉強しない。「多忙」は、高校教育のシステム上の問題ではない。自分で勝手に余計な作業をつくり出し、「多忙」を演出しているのである。その解決策はいくらでもある。
①校内模試の廃止:年に数回行われる校内模試などは、大手予備校の全国模試を利用すれば事足りる。プロが作る全国模試のクオリティの高さは、高校のアマチュア教師がつくる校内模試の比ではない。「作成」「採点」「集計」「講評」と、形ばかりの粗雑な作業を自分でつくっておいて、勝手に忙しく振る舞う。仕事をしているフリを装っているのである。
②「補習授業」の廃止:夏休みや冬休みに行われる「補習授業」は、正規の時間内に、正規の課程が終えられないことに起因する。教師の生産性の低さや、能力のなさが問われる問題である。「生徒のため」というのは方便である。「補習授業」は、休み中の計画が妨害され、生徒にとっては迷惑なのである。
③「三者面談(生徒・父兄・教師)」の廃止:通勤時間と勤務時間を合わせると14時間。これは、「働き方」から言って、明らかに異常である。自らの「生活スタイル」や「タイム・マネジメント」ができない教師が、三者面談と称して、上に立って、生徒の「学習相談」「生活相談」「進路相談」をするというのだから呆れる。面談は1人15分として、40人で計10時間である。こんな面談を年に3度も行っている。自らの「時間管理」が杜撰だから、生徒や父兄の時間を奪っておいて平気なのだ。親はわざわざ仕事やパートを休んで、学校に足を運んでいるのである。
④宿題の廃止:宿題は教師の仕事観からくる。「仕事とは、やらされるからやるもの」「勉強とは、やらされるからやるもの」というマインド・セットなのだろう。教師が怠惰だと、自分が教える生徒のことも怠惰に見える。「自分が仕事が嫌い」だと、「生徒も勉強が嫌い」だと考える。自己の価値観の投影である。「教えること」や「学ぶこと」の意義や楽しさについて考えたことがないのだろう。学ぶことの楽しさを知れば、人はいくらでも学ぶ。怠惰な教師が課す課題など、生徒にとっては煩わしいだけである。学ぶことの楽しさを知らない教師から教わる生徒は不幸である。
以上①②③④で生まれる空いた時間に、教師は少しは謙虚になって勉強してはどうか。「英語が喋れない」で「英会話」を教える自己矛盾を、少しは恥じてはどうか。
●「虎の巻」が手放せない教師
最後に、なぜ高校生レベルの教師が英語を教えられるのかを説明しておこう。それは、高校で扱う「教科書」や「問題集」には、すべて全訳と解答が付いているからである。そこには、指導上のポイントから定期試験のサンプルまでが載っている。教える能力がない教師でも教えられるようにと、至れり尽くせりの配慮がなされている。
裏を返せば、そういう教材だからこそ高校側は「教科書」として採用しているのである。いわば、「虎の巻」を見ながら授業をしているのだ。そして、この「虎の巻」は市中に出回ることはなく、生徒の目に触れることはない。教師だけが手にすることのできる特典である。したがって、不勉強な教師であっても、その手の内を脅かされることはない。
そもそも、教員免許を取得し採用試験に受かりさえすれば、後は何も勉強せずとも、生涯に渡って食べていけると考えること自体が時代錯誤なのである。
教師は、自分たちだけは消化の良いものを口にし、生徒には消化の悪いものを押し付け、「よく噛みなさい」と、したり顔で言う。その姿勢は、教育の本質からはほど遠い。もし真剣に授業を改善したいのであれば、「虎の巻」を公開し、手の内をさらけ出すべきだろう。生徒と同じ土俵で戦い、四つに組む覚悟を持つべきだ。1回1回の授業が生徒との真剣勝負なのだ。それをしない限り、教師のレベルは永遠に高校生レベルのままだ。現状の延長線上にある英語教育の未来には、一筋の希望すら見えない。
2025年2月23日