ういろう売りのせりふの衝撃
●無になってくり返す
30年ほど前のことである。ある女子アナが、『ういろう売りのせりふ』を、滑舌訓練のため、毎日1回は読むことにしているというのを耳にした。
『ういろう売りのせりふ』は、歌舞伎の演目である。アナウンサー、芸人、俳優といったプロのしゃべり手の発声練習の教科書になっている。
おもしろそうなので、私も読み始めてみた。言葉遊びのような音が延々と続き、舌がもつれそうになる。読むのにそうとう苦労する。400字詰めの原稿用紙で4、5枚分ある。初めて読むと、数分はかかるだろう。確かに滑舌の練習になる。
好奇心から、日に数回くり返し読んだ。数ヶ月ほどたったころ、あることに気づいた。
目が追う個所よりも、口はずっと先のせりふをしゃべっていた。要するに、読んでいる場所と、しゃべっている内容がズレていた。もしや暗記しているのでは、と思いきや、案の定、原稿を手にしなくても、そらでスラスラ言えるようになっていた。
人間の能力のスゴさに鳥肌が立った。
役者でもなければ、こんな長いせりふを、しかも意味不明な内容を暗記しようとは思わない。「覚えようとしてないもの」を、「覚えようとしないで覚えてしまった」のである。
『ういろう売りのせりふ』の音読は、思いもよらない感動を生み、人間の持つ能力の可能性と希望を示してくれた。
●人間のマルチな能力
暗記してしまうと、頭の中ではこんなことが起こる。毎日おなじ原稿を暗唱するのは単調で退屈きわまりない。暗唱しながら、頭の中では別の思いが駆け巡る。きのう起きた嫌なこと、10年前の楽しい思い出、今日はこのあと何をしようかと、とりとめのないことが浮かんでは消えていく。
暗唱するのに、知的なエネルギーはいらない。暗記した内容が勝手に口から出てくる。身体で覚えるとは、こういうことをいう。
自転車で自由に走ることができるのも同じメカニズムである。自転車に乗るには複雑な動作が要求される。足でペダルをこぐ。手はハンドルを握る。身体全体でバランスを取る。目は前方や周りに注意を払う。それでいて、頭のなかでは別のことを考えている。自転車の操作にかかわる一連の動作はすべて自動化され無意識に行われる。
人間の二足歩行も同じである。右足を踏み出す直前は、左足いっぽんだけで立っている。バランスを崩さないのが不思議である。つぶさに観察すれば、歩行も複雑な動作である。歩きスマホは勧められないが、歩きスマホから、歩行という動作は自動化され、思考は別になっていることがわかる。二宮金次郎の、薪を背負って歩きながら本を読む姿も、しかりである。
●英会話はマルチな能力
『レアジョブ』のオンライン・レッスンを受け始めて6年目になる。ニュース記事を題材に、チューターから、あれやこれや質問される。
たとえば、ある記事のある意見について、賛成か反対かを問われたとする。Yesか Noかだけを答えて、それで責任を果たしたと考えるのは英語のロジックではない。必ずbecauseと続けて、その理由を説明しなければならない。英会話は、いわばwhyとbecauseの応酬である。
バナナは好きかと問われて、Yesと答えたら、「なぜなら、それは値段が安いから、どこにでもあるから、簡単に皮がむけるから」と、好きだとする理由を挙げるのがマナーである。
Yesだけで終わっていたら、あなたとはかかわりたくない、あなたとは言葉を交わしたくない、というメッセージになりかねない。「あなたのことを知りたいんです」「私のことを知って欲しいんです」という欲求が、会話を発展させる。
英会話だから、Yesと答えたあと、思いついた内容を英語に変換しなければならない。そして、その変換のパターンはさまざまである。
「値段が安い」は、It’s cheap.にするか、The price is low.にするか。「どこにでもある」は、It’s available everywhere.にするか、You can buy one at any supermarket nearby.にするか。「簡単に皮がむける」は、It almost peels itself.にするか、You don’t bother to peel it with a knife.にするか。
英文法についても一筋縄ではいかない。
The price is low.で、priceに対してはlowであってcheapは用いない。You can buy oneで、oneをitに置き換えることはできない。peel itとpeels itselfで、itとitselfをどう使い分けるのか。
発音についても注意を払わなければならない。
日本語では同じラ行音でも、priceのr音と、lowのl音は当然ちがう。peel it with a knifeは、ピール//イット//ウィズ//ア//ナイフ、と単語ごとにブツブツ切って発音するのではない。語尾の子音は、次に続く単語の母音と同化し、ピーリット//ウィザ//ナイフ(peelit witha knife)となる。発音上は、5ワードは3ワードに縮まる。
こんなジョークがある。ロンドン行きの列車のチケットを窓口で買おうとして、To Londonと言ったら、2枚チケット(two)が、For Londonと言い換えたら、4枚チケット(four)が、困って、「えーと」とつぶやいたら、8枚チケット(eight)が出てきた。
●瞬時に処理する能力
英語で質問されたら、頭の中ではこんなことが起きている。
①返答の中身を日本語で考える。
②その中身を英文に変換する。
③その英文を音として口に出す。
これら①②③を瞬時に行うのが英会話である。
そして、その瞬時というのは、ゼロ・コンマ何秒かを指す。もし3秒もかかったら、会話のリズムは崩れる。3秒の沈黙は、会話では異様な長さに感じられ、命取りになる。①②③の処理は、ほぼ同時進行で行われる。
①の考える能力は、教養と知識に裏打ちされ、日頃の読書がものをいう。②の英文への変換は、英文法に習熟しているから行える。文法を気にするからしゃべれないのではない。しゃべれるのは、文法が気にならなくなるほど文法に習熟しているからだ。
①②③は密に絡み合い、厳密な線引きはできないが、①②は、いわばソフトウエア、③はハードウエアになる。③だけが、表層に現れ、メカニカルな身体機能として鍛えることができる。残念ながら、英語学習者のあいだで、その認識はきわめて甘い。
③を鍛える方法は音読である。音読はスポーツでいえば基礎訓練である。野球なら素振り、サッカーならドリブル、ボクシングならスパーリングである。どんな分野であれ、基礎訓練なしで上達は望めない。
●音読のスゴさが実感できる
音読のスゴさを、私に再認識させてくれたのが、『ういろう売りのせりふ』である。
自分でもやってみたいと思う人は、いったい何回くらいくり返せば、この長くて、舌がもつれるせりふが覚えられるのか、なおかつ口から自動的に出てくるようになるのか、そんなことが自分にできるのか、と不安に思うだろう。
私の場合、1日に3回ずつ読み、8ヶ月目で覚えた。覚えたというより、知らぬ間にそらで言えるようになっていた。トータルの回数は700回くらいである。1日1回なら2年かかる。それぐらいのんびり取り組めば必ず成功する。そして、あなたは自分の持つ思いもよらなかった能力に目覚める。
コツは、決して覚えようとせず、愚直にくり返すことである。「要領よく覚えよう」「早く覚えよう」「工夫して覚えよう」とすると、おそらく挫折する。そして、楽をして覚えたせりふは、すぐに忘れる。実際には使いものにならない。
A watched pot never boils. (見つめられていると、鍋はなかなか煮えない)
Easy come, easy go. (簡単に手に入れると、簡単に失う)
Slow and steady wins the race. (ゆっくりでも着実なのが競争に勝つ)
先日、映画を観ていたら、俳優のオーディションで、『ういろう売りのせりふ』を1週間で覚えてこいというシーンがあった。映画ではそれ以上の展開はなかったが、私なら、言い回しや振り付けも含めて余裕で攻略できると、想像をふくらませた。
2022年12月18日