「穴の開いた靴下」を履く教師
●自分にだらしない教師
体育館で行事があり、教師も含め全校生徒が一堂に会していた。そのとき、女子生徒がこんなことに気づいた。「あっ、先生の靴下に大きな穴が開いている。わぁー、直径3センチはありそう!」
この教師の「穴の開いた靴下」から、いろいろと想像がふくらむ。
・洗濯をしていて、奥さんは気づかなかったのか。夫婦仲は大丈夫か。
・今日は靴を脱ぐ予定はない。「誰にも気づかれないから、まあ、いいか」と考えたのか。
・穴が開いているのを見られても、「どうせ生徒だから構わない」と考えたのか。
・直径3センチ大の穴は、今日や昨日できた穴ではない。小さな穴が徐々に拡がったもの。そんな穴に何日間も気づかなかったのか。
・靴下の穴など、どうということはない。「はけなくなったら、買い替えればいい」と考えたのか。
いずれにしろ、穴の開いた靴下をはいて平気なのだから、自分に無頓着なのである。自分に対して、だらしないのである。自分にだらしない教師が、生徒を気遣うはずがない。靴下の穴を見つけた女子生徒は、この英語教師の授業をこう評する。「一生懸命に聞こうとしても眠くて仕方がない。自然に目が閉じてしまう。私だけじゃなくて、他の生徒も寝ている」
●誰も聞かない授業
靴下と同様に、この教師は自分の授業がきちんと聞かれているかどうかに、まるで無頓着なのだ。授業は、単に聞かれるかどうかが問題ではない。生徒に中身を伝え、理解させることである。誰も聞かない授業など、論外である。
こんな映像をリアルに想像してみてほしい――教室を見渡せば、40人の生徒のほとんどが眠りこけている。しかし、教師は気にも留めず、素知らぬ顔で淡々と何かをしゃべり続けている。
誰も聞いていない授業を平然と続けられる理由はいくつか考えられる。そのひとつは、この教師自身が普段から他人の話を聞いていないのだ。自分が人の話を聞かないのだから、生徒が自分の話を聞かなくても当然だと考える。これが、この教師にとっての「当たり前」なのだ。
こうも考えられる。この教師は、誰かに真に話を聞いてもらったことがないのだ。ことばが単に音として相手の耳に届くことが、「聞いてもらう」ではない。「聞いてもらう」とは、自分の思いが相手に届き、受け入れられることなのだ。普通の感性であれば、自分が受け入れられ、暖かい空気に包まれ、心地よい状態にあることに気づく。
そう考えると、この教師は家庭でも職場でも、どこにいても「自分が伝わる」「自分が受け入れられる」という経験を持たずに生きてきたのだろう。表面上は社会と交わっているように見えても、内面では、誰からも受け入れられず、社会から孤立している。だが、もっと厄介なのは、そんな社会から孤立した状態を、「心の貧しさ」と認識していないことだ。
●自己表現の舞台のはずが……
この教師の自己評価は、こうだ。「自分の話など聞くに値しない」「自分は取るに足らない人間だ」「誇れるものなど何ひとつない」。そんな自己評価の低い教師に教わる生徒は、たまったものではない。もはや災難である。
教壇は、教師にとって自己表現の舞台のはずだ。それなのに、伝える「熱意」もなく、そもそも伝えたい「何か」がないのに、教壇に立ち、いったい「何が」したいのか。ただ時間を埋めるだけのことばに、力はない。中身のない授業は、生徒から生きるエネルギーを奪うだけでなく、教師自身も消耗していく。深刻な負の連鎖を生んでいるのだ。しかし、「穴の開いた靴下」を履く教師に、その自覚はない。
●とっておきの改善策
この教師が、真剣に負の連鎖から抜け出したいと考えるのなら、とっておきの「改善策」がある。 簡単で、今すぐに、誰にでもできる。――自分の1コマの授業ぜんぶを、スマホで録音し、それを聞くのだ。そこには普段着の「自分の声」がある。
最初は、「こんな声なの?」と、自分の声に違和感を感じるだろう。自分が聞く自分の声は「空気振動」と「骨振動」が合わさったものだから、「空気振動」として聞こえてくる録音の声とは違って聞こえる。しかし、生徒が聞いているのは、まさにこの「録音した方の声」である。「これは自分の声ではない」と否定したくなるが、まずは、それを受け入れるところから始まる。
自分の声を磨くことに、どんな意味があるのか。その答えは、山崎広子氏の以下の3冊に詳しく書かれている。
『8割の人は自分の声が嫌い』
『声のサイエンス』
『人生を変える「声」の力』(NHKテキスト)
・「自分の声が嫌い」という人は、自己肯定感が低い。無意識のうちに自分と向き合うことを避けている。自分の声への意識は、そのまま生き方の投影である。自分の声と向き合うことは、自分の人生と向き合うこと。
・「本物の声」は「命そのもの」である。目は閉じることができるが、耳は閉じることができない。眠っていても、耳は音を受け取っている。「本物の声」は、聞き手の本能に、有無を言わせぬ影響力を持つ。「作り声」や「自分を生きていない声」は、相手の心に届かない。
・日常会話を録音する理由は、意識せずに話している声のなかにこそ、本当の自分を知る手がかりがあるからだ。声で、「かわいらしさ」「誠実さ」「できる人」を演出しても、そこにはウソが透けて見える。声は、頑張れば頑張るほど、真実性から遠ざかる。
・録音した声を聴き、「装っている自分」「媚びている自分」「コンプレックスを抱えた自分」「ヒステリックな自分」「シャイな自分」を読み取る。嫌な声のなかに、ときおり、「いいな」と思える声がある。それが「本物の声」である。
・その「いいな」と思える声を何度も聞き、それを耳に記憶させる。自分の声を録音し聞く。これを何度もくり返すうちに、「いいな」が、どんどん増えてくる。
・新人タレントは、自分がどう見られているかを、映像でチェックする。その結果、野暮ったさが改善され、カッコよくなっていく。声も同じである。録音した自分の声をチェックすることで、「理想の自分」へと変わっていける。
・自分の「声」を意識して聞くだけで、「脳」が、自動的に声を修正してくれる。脳には、「自動補正機能」が備わっている。「声」は、聞くだけで驚くほど変わる。脳の「自動補正機能」にスイッチが入るからだ。
・声は、他者に影響を及ぼすだけでなく、自分にも影響を及ぼす。「作り声」は、偽の人格を作る。「弱々しい声」は、弱々しい身体を作る。「上ずった声」は、地に足が着いていない状態を作る。「あなたの声」は「あなたそのもの」であり、「あなたの声」が「あなた」を作る。あなたが、もっとも多く聞く声は「あなた自身の声」である。
・本気で相手に何かを伝えたいなら、メールではなく、ナマの声を届けよう。30行の文章よりも、数秒のナマの声の方がインパクトがある。現代人は、SNSでのやり取りに慣れ、リアルな声で伝えることが苦手になっている。
・Y子先生が教える小2クラスは、学級崩壊の状態だった。彼女はいつ辞めようかと、教師を続けていく自信がなかった。彼女に自分の声を何度も聞いてもらった。2ヵ月後、彼女の声は、別人のような声に変わっていた。彼女が担当するクラスの学級崩壊は収まった。
●「声」で「自己」と向き合う
私が自分の声を録音して聞くようになったのは、カラオケの腕を上げるためだった。今から約20年前のこと。歌うのは決まって洋楽。英語の発音を磨くためだった。録音を再生すると、上手く歌おうとしている「いやらしさ」が、そのまま声に滲み出ていた。自分で聞いて、気持ちが悪い。山崎広子氏が指摘する通り、上手く歌おうと頑張れば頑張るほど、ウソッぽいのである。
最近の録音を聞くと、気になる箇所はあるものの、「悪くない」「いいかも」と思える部分が増えている。音程やリズムの正確さはともかく、心地よく歌っているせいか、自分の声に自然と引き込まれる。録音して、ただ聞くだけで、ここまで変わるものなのかと驚く。
英会話についても、同じことが言える。毎朝の25分の英会話レッスンを録音することにしている。2、3ヵ月前から、できるだけ毎日、再生して聞き返している。ネイティブの声はディープで、どこか深い。それを真似ようと頭で考えても、どうにかなるものではない。だが、脳が持つ「自動補正機能」が、声の質を自動的に修正してくれる。自分の声を聞くだけでいいのである。文法上のミスには目をつむり、「声」だけに集中すると、結構、「いいな」と思える。相手に一生懸命に伝えようとしている、「けなげな自分」「ひたむきな自分」を発見し、自分で自分に好感が持てる。
数年前から通信講座を始めた。2時間の講義を録音し、それを配信している。ときには自分の講義を再生して聞くこともある。意外と悪くない。気づけば自分の声に引き込まれ、2時間まるごと聞いてしまうことさえある。我ながら高い自己肯定感だと思う。
私から見て、ユーチューバーという存在は圧倒的だ。内容はさておき、不特定多数の視聴者に向けて、自分の声と顔を堂々とさらけ出すのだから、その自己肯定感たるや、常人の域を超えている。
一方で、学校の教室はある意味「密室」だ。教師と生徒の関係は、いわば「主」と「従」。どんなにひどい授業でも成り立ってしまう。外からのチェック機能が働いてないからだ。
だからこそ、「穴の開いた靴下」を履く教師は、自らの「声」と向き合ってみるといい。声は、無意識の領域で自己とつながっている。自分の「声」を客観的に聞くことは、自分自身と向き合うことにほかならない。それだけで授業の質は確実に向上する。
もっとも、「自己」と向き合う勇気が、この教師にあればの話だが。
2025年4月1日