mustからmayへ―私の「本」との付き合い方
●拾い読みは悪い?
香川県立図書館に2週間ごとに通い始めて数十年が経つ。図書館までは車で25分。蔵書数は120万冊を超える。そこで毎回10冊の本を借りている。1冊2千円の本なら、2週間で2万円、つまり1週間で1万円。1年を50週で計算すると年間50万円、10年続ければ500万円に達する。これを40年続ければ2千万円。中古マンションが買える金額になる。しかし、こうした金銭的メリットが言いたいのではない。図書館に通うようになって得たものは、それよりも大きなものがある。本との接し方である。
図書館で14日間借りる10冊に加え、自分で購入した本もある。すなわち、ほぼ毎日1冊のペースで本を読んでいる計算になる。こう書くと、あたかも速読家のように聞こえるが、あくまで普通に読んでいる。ただし、すべての本を初めから終わりまで読み切るわけではない。小説でもエッセイでも、まず目次に目を通し、気になる箇所から読み始める。その箇所が面白ければ、その前や後を読んだり、きちんと最初の1ページから読み始めたりする。逆に、興味が湧かなければ、そこでその本との付き合いは終わる。それ以上読むことはない。途中で投げ出したからといって本に責任があるわけではない。本と私の気分が合わなかったに過ぎない。
全部を読み通さなければならないという強迫観念から解放されると、本を読むことにストレスがなくなる。これは図書館で借りた本だから起こったことであり、自分で買った本では、こうはならなかっただろう。何だかもったいないからである。
●1分でも心に響く
こんな読み方をするようになった経緯はこうである。大量に借りた本を短期間で読み切れるはずがない。律儀にcover to coverで、初めから終わりまで読んでいては返却日に間に合わない。せっかく借りた本なのに開きもしないで返すのもヘンである。パラパラとめくって面白そうなところだけを拾い読みして返却していた。そのうち自然の成り行きで、借りたらすぐに面白そうなところから読み始めるようになった。
その結果、「本はこう読むべきだ」というmust(義務)だったものが、「本はこう読んでもいいんだ」というmay(許可)の意識に変わり、さらに「本はこう読むこともできる」というcan(可能)の意識へと変わっていった。気がつくと、「本はこう読んではいけない」というmust not(禁止)の意識は消えていた。
「本はこう読め」「最初から読め」「最後まで読め」「途中から読むな」「拾い読みはするな」「飛ばし読みはするな」「斜め読みはするな」は、すべて思い込みである。1ページずつ順に読んだからといって理解が深まるわけではない。ランダムに大量に読んでいると、いい本に出会うチャンスが増える。つい最近読んだ『ハチドリのひとしずく』(辻信一監修)は、次のくだり(同書には英文も併記)を読むのに1分もかからない。それでいて心に響く。
―森が燃えていました。森にいるすべての動物、昆虫、鳥がわれ先にと逃げていきました。しかし、クリキンディ(金の鳥)という名の小さなハチドリが一羽だけ残っていました。クリキンディは水と火の間を行ったり来たりして、くちばしで水のしずくを一滴ずつ火の上に落としていきました。動物たちがそれを見て、「そんなことをしていったい何になるんだ」といって笑いました。クリキンディはこう答えました。「私は、私にできることをしているだけ」―
―The forest was on fire. All the animals, insects and birds in the forest rushed to escape. But there was one little hummingbird named Kurikindi, or Golden Bird, who stayed behind. This little bird went back and forth between water and fire, dripping a single drop of water from its beak onto the fire below. When the animals saw this, they began to laugh at Kurikindi. “Why are you doing that?” they asked. And Kurikindi replied, “I am doing what I can do.”―
●洋書だって自由に読める
洋書を読むときも同じである。読みたい箇所から読み始める。知らない単語に出くわしても、辞書を引くこともあれば引かないこともある。そのときの気分次第である。決まった方針はない。
おぼろげな意味しか分からなくても読み進めることもあれば、受験生がやるように、英文の構造を徹底的に分析することもある。読書の流れが中断しても煩わしいとは思わない。分析すること自体が楽しいからである。英文の内容とは別に、英文法に習熟すると英単語の並びそのものが美しく見える。複雑ではあっても、どこまでも整合性があり均整のとれた建造物のように見え感動するのである。
しかし、どんなに英文と格闘しても意味が解明できないこともある。そのときはAIの助けを借りる。私はDeepLという翻訳に特化したアプリを使っている。DeepLの見事な翻訳に、とうてい適わないと脱帽することも多い。つぶさに分析しても文法的に腑に落ちない英文もある。そんなときは、DeepLにリライト(書き換え)をさせる。リライトされた英文を見て、「やっぱりそうか」「そうであるならこう書くべきだ」と、我が意を得たりと納得する。DeepLには大いに助けられている。
●ゆっくり読むから味わえる
洋書も含めて1日1冊以上を読んでいることになるが、本を大量に速く読もうとしているわけではない。そもそも自分のことを、読むのが速いとか遅いとか考えたことがない。たぶん人一倍ゆっくり読んでいる方だと思う。
画家で名文家だと言われている東山魁夷の『風景開眼』を、ワープロではなく手書きで書き写したことがある。文中の「躑躅」という漢字は読めない。読めもしない漢字を書き写すわけにはいかないから調べる。調べてみて始めて、「つつじ」だと分かる。筆写していると、一つひとつの言葉が気になりだす。「落葉松林」(からまつばやし)とは、どんな松林かも調べてみた。「からまつ」は、針葉樹の中で唯一の落葉樹とあった。どんな画風なのかと、図書館で東山魁夷の画集にも目を通した。透き通るような青や緑を基調にした風景画が印象的である。
ゆっくり書き写していると、厳かな気持ちになり、誰に見せるわけでもでもないのに、一字一句を丁寧に書く。ここで句点を打つのかと、句点の位置まで気になる。読むスピードで言えば、「速読」の真逆にあたる究極の「遅読」である。
芥川龍之介の『トロッコ』は、約4200字の短編。これを3分の1の1400字に縮めてみたことがある。文章を「縮める」とは、語句は変えず、語順も変えず、ひたすら文章を削っていくことを言う。これは、『日本語練習帳』(大野晋著)のなかで、著者が提唱している文章上達法である。
『トロッコ』の原文は、いちいち写し取らなくても、ネット上の「青空文庫」から手に入れることができる。原文を2つ、コピペでワープロに貼り付ける。1つは原本として残し、もう1つは作業用とし、デリート・キー(削除キー)を使って削っていく。削りすぎたときは、原本を参照して復元する。こう書くと、簡単な作業に聞こえるが、文豪の文章を削るのはたいへんである。無駄がなく、おいそれとは削れないのだ。これが文豪が文豪だと言われる所以である。
代名詞だからとか、接続詞だからといって、むやみに削っていいわけではない。物語の構成は崩せない。同じ文章を何度もゆっくり読み返す。頭がフル稼働する。そうやって削っていくと、文章の骨格が浮かび上がる。どう肉付けされたのかも見えてくる。これは自分が文章を書くとき、厚みを持たせたいときの参考になる。「削ること」と「足すこと」は、同じ理屈であることが分かる。この「縮約作業」が理に適った文章上達法であることに納得がいく。
私はこの「縮約法」を、英文を書く練習にも用いている。数行から成る英文の段落を、3分の1に縮めるのである。英文の縮約は英文法に習熟していなければできない。裏を返せば、縮約を通して英文法に精通することができ、英文を自在に操る運用能力を身に付けることができる。
専門的な話になるが、「ing」には「現在分詞」と「動名詞」の2種類がある。「ing」が「現在分詞」の場合、「名詞修飾」「文修飾」「補語」のどれかであり、「補語」の場合を除き、「修飾語」の「ing」はバッサリ削ることができる。方や、「ing」が「動名詞」の場合は、むやみに削ってしまうと英文がセンテンスの体をなさなくなる。また、関係代名詞のthatで導かれる部分はすべて飾りだから一気に削ることができる。しかし、同じthatでも、接続詞のthatで導かれる部分は一概には削れない。「縮約法」は英文のライティングにも極めて有効である。
●場所も時間も選ばない
本を読む場所もさまざまである。必ずしも書斎で読むわけではない。出先でも読めるように、バッグには異なるジャンルの本がいつも数冊入っている。気分は移ろいやすい。それに応じて読みたい本も変わる。私は読む本を、十数分ごとに変えている。テレビのチャンネルをザッピングするようなものだ。
そして、本を読むときに心掛けていることがある。面白そうなところでわざと止めるのである。読みたい気持ちを保留にし、わざと引き延ばすのである。そうすることで、読みたいエネルギーが蓄積され、次に読み始めたときの流れがスムーズになる。息を吐き続けていれば、どこかで吸いたくなる。その吸いたい欲求が高まった分、吸い込むときの解放感は格別だ。これと同じで、継続の秘訣は、うまくいっているときにあえて中断することである。
いまバッグにはこんな本が入っている。1冊は漢文の本。『漢文ヤマのヤマ』(三上邦美著)は受験参考書である。ときどき歯切れのいい漢文が読みたくなるのだ。漢文は短い一文に意味が詰まっていて中身が濃い。すき間時間を埋めるにはうってつけである。もう1年以上もバッグに入っている。読むのは4周目である。受験生でなくても、同じ本をくり返し読んでいると勝手に漢文に明るくなる。「ヲ・ニ・トあったら返れ」(鬼と会ったら返れ)など、返り点のルールも自然に分かってくる。この本は、1つのテーマが見開き2ページに収まっていて読みやすい。漢文といっても堅苦しさはなく、中国の故事が散りばめられて、楽しい本である。
さらに1冊は洋書。”The Five Major Pieces to the Life Puzzle”は、Jim Rohnの自己啓発系の本だ。翻訳はされていないが、翻訳されてもおかしくない良書である。
例えば、こんなくだりがある。”If our current rewards are small, then our past efforts were small. And if today’s effort is small, the future reward will be small.”(現在の報酬が小さければ、過去の努力が小さかったことになる。そして、きょうの努力が小さければ、将来の報酬も小さいだろう)
翻訳文だと、頭の中をスーッと通り過ぎてしまうが、原文には、原語が持つ言葉のパワーがある。それに洋書である分、ゆっくり読むので記憶に残る。
ランチを独りで食べながら、よく洋書を読む。洋書の方が、和書に比べて読むのが遅くて都合がいい。速いからいいのではなく、遅いからいいのである。行儀はよくないが、食器の下に本を差し入れて、ページが閉じないようにしておく。自由になった両手は食事に使い、視線は活字に向ける。開いたままのページの同じ文章をゆっくり反芻する。食事も英文も、その方がよく味わえるのである。
さらにもう1冊はノンフィクションで、『180秒の熱量』(山本章介著)。この本はタイトルがすごい。タイトルだけで買ったようなものだ。引退が迫った老ボクサーの実話である。期待にたがわず面白い。ネーミングの持つ力は絶大である。こんな話がある。アメリカで、「明太子」をcod roe(タラの卵)の名で売り出したところ評判がよくない。そこで、spicy cavier(スパイシー・キャビア)に名前を変えたところ爆発的にヒットしたという。キャッチ・コピーのパワーは偉大である。
違ったジャンルの本がバッグの中にあり、いつでも読めると思うと安心する。医者にかかったときの待ち時間、電車の待ち時間、家人との買い物で待たされたときの時間など、どんなに待たされても、本があればイライラしなくてすむ。むしろ本が読めてありがたいと思う。
●生き方もmustからmayへ
先に挙げた『180秒の熱量』の中に、こんな話が出てくる。主人公のボクサーは高校時代、レスリング部に所属していた。1年生でありながらインターハイに出場し、ここ一番で勝ち、自分の高校をベストエイトに導いた。そのおかげで3年生の1人が信州大学に推薦で入ることができた。しかし、入学の翌年、その先輩はオウム真理教が起こした松本サリン事件の最も若い犠牲者となった。「あの時、僕が勝たなかったなら、先輩は死ななかったんだなあって、思うことがある」と、主人公は述懐する。
われわれは生活のさまざまな場面で、良かれと思う最善の選択をする。しかし、それが次の展開で瞬時に凶に転じたりする。オセロゲームと同じで、それまでの白の優勢が、たった1手で黒の優勢に変わる。何が幸いし、何が災いするかは誰にも分からない。禍福はあざなえる縄のごとしなのだ。
そうであるならば、固定された価値観で縛られて生きるよりも、こう生きてもいいんだと思って生きるほうが、人生は楽しそうである。少なくとも、私は読書をそうやって楽しんでいる。mustからmayである。
2025年1月30日