勝浦英語塾では、英語指導歴30年のエキスパートが、大学受験英語を通して、30年後にも通じる、生き方と在り方とその方向性を伝えています。 

120222

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    ─── センター試験の廃止を (その3) ───



       センター試験はどんな人間を生み出しているのか


  
●It's too easy to answer. 

 
 以下は、「最も適当なものを①~④のうちから選べ」というセンター試験の問題だが、奇妙な問題だ。

 
You should not let your personal emotions ( 15 ) in the way of making that important decision. (センター試験 2012年・第2問・問8)

①stand    ②standing    ③to be stood    ④to stand

 どこが奇妙かというと、解答に到るプロセスがあまりにも単純なのだ。ここで問われているのは、「let+目的語+原型動詞」という「letの動詞型」に過ぎない。問題文は、(  )の後も仰々しく単語が続いているが、簡略化すれば、次の問いと同じである。

You should not let him (  ) there. (彼をそこに立たせてはならない)

①stand    ②standing    ③to be stood    ④to stand

 かりにも大学進学を目指す受験生なら、間違えようのない問題である。ひょっとしたら中学生でも正解するかもしれない。そんなレベルの問題だ。

●I don't know what it means. 

 しかし、奇妙だというのは、実はこのことではない。

 センター試験を受けた塾生に、問題文を訳してもらうと、訳せないのである。全員が例外なく正答の①standを選んでいながら、英文の意味はわからないという。結局、この問題は英文の内容が理解できなくても正答できるというヘンな問題なのだ。

 問題文は「その重要な決定を下す際に私情をはさんではいけない」という意味だが、受験生は、そんな英文の内容などお構いなしに正答してしまう。受験生の心理はこんなところだろう。

 <後半には長文が待ち構えている。文法問題はできるだけ短時間ですませよう。きちんと読めなくても答えが合いさえすればいい。余計なセンテンスにのんびり付き合っている暇などないのだ>

 では、出題者はなぜこんなヘンな問題を出したのか? 

 出題者が「let+目的語+原型動詞」をわざわざ大学受験生に問うとは考えられない。出題の意図は、「stand in the way 」が理解できるかどうかの方にあったはずだ。問題の力点は、前半の「let」ではなく、後半の「stand in the way」なのだ。

 しかし出題者の意図とは関係なく、受験生は前半を読んだだけで正答してしまう。出題者は知恵をしぼって問題を作成したつもりでも、後半の部分などだれも読まないのだ。もっともらしい体を装った問題だがクオリティは低い。

 ここでstand in the wayについても触れておこう。

 
 問題( 15 )の答えがstandだからといって、辞書でstandを調べてもムダだ。ここで引くべきは単語は、standではなくwayの方だ。能力がなくては辞書は引けない。大修館のジーニアス英和大辞典にはこんな用例が載っている。

 A fallen tree was in the way of the bus.
 倒れた木がバスの進行の邪魔をしていた。

 wasをstandに代えて訳せば、「倒れた木がバスの行く手をふさぐ」の意味になる。したがって、Your personal emotions stand in the way of making that important decision. は「重要な決定を下す際に私情が立ちはだかる」の意味だ。

●The end justifies the means. 

 しかし、こんな英文の意味などわからなくても、どうということはない。センター試験は記号が合いさえすればいいのである。英語力などなくても、どんな考え方をしようと、どんな手段をとろうと得点できればいいのである。

 同じことが市内の高校の校内模試についても言える。試験問題は、まず英文の下線部訳を求める「記述問題」から始まり、後半部分に、「発音・アクセント問題」が続く。

 下線部訳は、英文の訳を記述するのに1題につき5分~10分はかかる。配点は3点。一方、「発音・アクセント問題」は、知っているか知らないかの話だ。1、2秒で解答できる。配点は1点で、3問正解すれば3点。数分かけて3点得点するのと、数秒で3点得点するのと、どちらが効率がいいかは明らかだ。

●Their top priority is to get the highest score. 

 ここで単に配点の不均衡をいっているのではない。指摘したいのは、こうした試験が点数至上主義を生み、普段の学習のあり方にも影響を及ぼしている点である。

 受験生は単語さえできれば得点できると思い込み、「英語学習=単語の暗記」という薄っぺらな考え方をする学生が後をたたない。音として声に出すことこそ語学学習のベースなのだが、音読の上手いヘタなどは数値化されないから見向きもしない。受験に関係のない分野や学科は勉強しない。授業中でも、受験に関係ないとわかれば教師の話など聞こうとしない。

 入試で問われない事柄への関心は薄くなるばかりだ。「どんな本を読み何に感動したか」「どんな人間関係につまずきどんな成長をしたか」「部活でどんな汗や涙を流したか」「何にチャレンジし何に情熱を傾けたか」「仲間とどんなことで大笑いしたか」

 そんなことに時間を割くより受験テクニックを磨いた方がいい。点数に現れる結果こそ絶対であり、大学こそがすべてだと考えるようになる。スポーツ紙にこんな見出しの記事が載っていた。

 「俺は東大生だぞ」「おまえらとは格が違う」 成人式迎える東大生、駅員に暴行して逮捕
                            (スポニチ 2012年1月10日)

 どこの大学に入ったかは、元をただせば点数の寄せ集めにすぎない。「俺は東大生だぞ」と「俺は幼稚園で逆上がりができるようになったんだぞ」はどこが違うというのか。

 入試の現場では、こんなことも進行しているという。京都大学で30年近く入試答案を採点してきた教授が指摘している。

 「新しい傾向が、ここ7、8年前から始まった。すべての問題に解答しているが、どの問題も途中で解答が放棄されているのである。数学の採点では、考え方が途中まで合っていれば部分点を与えることが多い。それを見越して、部分点だけを集めて5割、6割の点数をとろうという作戦である。これだと、問題を完全に理解する必要はない。パターンを覚えて、似た問題の解答をまねて書いていけばよいのである。受験技術としては完璧だろう。しかし、大学に合格してもそれ以上の勉強を続けていくことは難しい。」(以上要略)『学力があぶない』大野晋・上野健爾著 岩波新書より

●Get money by any means available. 

 先に、「センター試験は、英語力などなくても、どんな考え方をしようと、どんな手段をとろうと得点できればいい」と書いた。これをそっくりそのまま社会人に当てはめると、次のように言い換えることができる。「仕事への興味や情熱などなくても、どんな考え方をしようが、どんな手段をとろうが、稼げたらいい」

 得点しやすい手段で得点して何が悪い → 稼ぎやすい手段で稼いで何が悪い
 手っ取り早く得点して何が悪い    → 手っ取り早く稼いで何が悪い
 楽に得点して何が悪い        → 楽に稼いで何が悪い
 たくさん得点して何が悪い      → たくさん稼いで何が悪い
 得点できないのを見下して何が悪い  → 稼げないのを見下して何が悪い

 このことに関して痛快な一文が目にとまったので挙げておこう。「エンピツをころがして何が悪い」は「クリックひとつで稼いで何が悪い」につながっている。

 私は先日テレビを観ていて、目の前が真っ暗になるような思いをした。その番組は、小さな事務所で1日中モニターを見ながらデイトレードをして、1年で2,000万円を稼ぎ出したという20代のある若者を紹介していた。よくありがちな話題だが、私はその若者の態度に違和感を覚えた。自分が稼ぎ出した金額を誇らしげに示し、稼げない男は無価値であるかのような倣慢な態度をとったからである。
 私はその青年にいいたい。デイトレードで2,000万円稼いだことが、まさか偉いとでも思っているのか。ただモニターの画面を見ながら株や為替の売買を繰り返す行為は、利益を上げたとて、何も生み出してはいない。社会に何の貢献もせず、ほとんど博打のような手段で金を稼いでおいて、世間を見下すとはいったいなにごとか。
 元来の日本的価値観によれば、そのような手段で稼ぎ出した金銭は、所詮「あぶく銭」と呼ばれる。ましてそれを本業としていることなど、恥ずかしくて堂々と世間にいえたことではないはずだ。
 たとえ収入が少なくとも、毎日懸命に働いている人の生き方は美しい。作物を育て、製品を作り、サービスを提供するなど、すべて人々の生活を幸せにすることにつながる。価値を創造するものがほんとうの仕事なのであって、デイトレードの類は到底「仕事」などと呼ベるものではない。

         『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』 竹田恒泰著 PHP新書より

 センター試験はめぐり巡って、品性のない拝金主義を生み、安易なマネーゲームに走る若者を生んでいる可能性がある。

●Nothing but useless 

 今年のセンター試験は、新しい方法を導入したことでトラブルが続出した。過去最大の混乱が起きたという。高校の現場からは、「会場の試験官はしっかりしろ」とか「受験生の人生がかかっているのに」といった声は聞こえてきても、廃止を訴える声は聞こえてこない。なぜだろう?

 「共通一次試験」が始まったのは1979年。「センター試験」へと名称を変えたのが1990年。発足から30数年が経つ。「共通一次」が始まったころ18歳だった学生は、教師になっていれば、現在50代のベテラン教師になっている。そしてそれよりも後の世代の教師はすべてマークシート世代ということになる。

 人間は保守的な生き物である。自分が受けてきた教育こそが善だと考えても不思議はない。「マークシート」が導入される前の「記述」の時代を知らなければ比較のしようがない。そこからは「センター試験」を疑う視点など生まれてこないのかも知れない。塗り絵もどきのマークシートで育った世代が、次の世代を再生産している。

 毎年1月になれば、マスコミは「センター試験」を冬の風物詩のように報道するが、脳天気な話である。大学入試で全国規模の統一試験がなぜ必要なのか。個性化が叫ばれるなか、個々の大学が独自の試験を行えば十分である。「センター試験」は無用の長物と揶揄されても仕方がないであろう。

2012年2月22日

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