『700選』は奇跡のような書だろうか?

 

音読のすすめ(17)

 

『新・基本英文700選』(駿台文庫)は、奇跡のような書だと評した高校生がいる。

― 高校2年のときの偏差値は35。夏休みに暗記を開始。1日あたり20例文を暗記。夏休み明けの模試で偏差値が70に。この本で人生が変わった。私には奇跡のような本。若いときの1ヶ月をこの本に捧げれば、生涯にわたっての財産が手に入る(アマゾン・カスタマーレビューより要略)―

●まず音読から

『700選』を暗記しようとして、挫折する人は97%以上だろうと先に書いた(『700選』の暗記は挫折する)。かりに達成率が3%なら、ひと昔前の英検1級の合格率に相当する。

高校生にとって、『700選』の英文は、3つに1つ、あるいは4つに1つが一筋縄ではいかない英文だろう。そんな難解な英文を暗記しようとしても、途中で投げ出すのは目に見えている。その結果、自己嫌悪や劣等感にさいなまれることになる。そうならないためには、覚えようなどとは考えずに、ひたすら音読することをすすめたい。

音読する前に、英文の意味を理解しておくというのはタテマエ上の正攻法であって、律義に守ることはない。いきなり音読から始めればいい。文法上の不明な点を解明して、文構造を分析して、などとやっていたら、せっかくの音読への意欲は萎えてしまう。歌と同じで、歌いたい洋曲があれば、すぐに口ずさんでみたらいい。単語を調べて、歌詞を理解して、などとやっているうちに歌いたい気持ちが消えてしまう。

読解は、頭を中心とした「静的な」(static)頭脳活動。一方で音読は、目・口・耳を使う「動的な」(dynamic)身体活動、いわば、スポーツみたいなもの。『700選』に挑もうというチャレンジ精神が湧いたのなら、じかに「音読」から関わった方が、『700選』はスムーズに攻略できる。

●小さいユニットに分ける

『700選』には45分のCDが2枚ついている。そこから判断すると、『700選』を1回読み通すには90分かかることになる。700のセンテンスを一気に読み通すというのは現実的ではない。音読に90分は長すぎる。経験から言えるのは、20分くらいがちょうどいい。音読は毎日おこなうものだから、短めに設定した方が無理なく続けられる。

Nothing is particularly hard if you divide it into small jobs.(Henry Ford)
小さな仕事に分けてしまえば、何事も特に難しいことはない。

「大きな事業を成就しようと思うならば、小さなことを怠らず努めなければならない。小が積もって大となるからである。およそ小人の常として、大きなことを望んで小さなことを怠り、できがたいことを憂えて、できやすいことを努めない。それゆえに、一生、大事業を成就することができぬ。大は小の積んでなることを知らぬためである」(『我が処世の秘訣』・本多静六著・知的生き方文庫・絶版)

単元別に分けて読むのも一つの方法だが、単元によってセンテンスの数にバラツキがあってリズムがとりにくい。10とか20とか、一定数を1くくりとした方が取り組みやすい。単元を無視したグルーピングでも、英文は英文であって支障をきたすことはない。

●私のやり方

『700選』を単に音読するだけでは、単調すぎるので、私は、日本文を見て英作している。10センテンスを1くくりにし、具体的には、No.1~No.10までのセンテンスを英作していき、それを10回くり返す。10回くり返し終えたら、つぎの10センテンス、No.11~No.20へと進む。

1回目は、すんなりとは英作できない、かなりギクシャクする。しかし、つっかえても、「難しい」と頭を抱え込んではいけない。つっかえたときは、左にある英文を見て音読すればいい。英作の答えがあるのだから、ストレスを感じることはない。2回目、3回目とくり返すにつれ、つっかえる箇所は必ず減ってくる。10回目には、英文を普通に音読するのと同じスピードで英作できるようになる。こうして10センテンスを1かたまりに進めていき、No.700まで到達したら、再びNo.1に戻り同じことをくり返す。これを1セットとし、次に2セット目に入る。これを自分にとって納得がいくまでくり返す。何セットまで行うかは個人の裁量による。

ここで大事なのは、「つっかえても、決して悩まない」ということ。つっかえたときは、単にその箇所を音読すればいいだけのこと。「つっかえたら、音読」「つっかえたら、音読」を淡々とくり返す。これを続けていけば、間違いなく上達する。自分の能力を嘆いたり、自己卑下しても始まらない。落胆や失望は何も生み出さない。考えるべきことは、どうやったら『700選』が攻略できるかであって、自分を責めることでも、悩むことでもない。「今日は昨日よりもよくなった」「明日は今日よりもよくなるだろう」と、ささやかな前進が期待できれば、音読は継続できる。

便宜的に、10センテンスを1ユニットとして説明してきたが、5センテンスを1ユニットとしても一向にかまわない。英作が負担に思うなら、単純に音読だけをくり返してもいい。私自身も、気分が乗らないときは、5センテンスを1ユニットで進めることもよくある。要は、自分にとって継続して取り組めそうな攻略法であれば何でもいい。

もし「何回やってもつっかえる」というネガティブな感情が涌いてきたら、その「何回」は具体的に何回を指すのか振り返ってみるといい。その回数が「数回」だったり、「数十回」だったりしたら、それは桁数が違う。攻略に要する回数は「数百回」の単位になる。

以前、HPの読者から「音読って、効果あるんですか?」という質問を受けたことがある。よく聞くと『サンシャイン3』(中学の教科書)の音読を数回やってみたという。音読について疑念を抱く人は、往々にしてその回数が驚くほど少ない。数百回の音読を行ってきた人に、その効果を疑う人はいない。年月をかけ継続する意志さえあれば、個人の能力とは無関係に「数百回」は誰にでも達成できる。

●音読表の作成

音読とは数百回読むことだと覚悟を決めると、おざなりではない腰の据わった音読になる。どんな教材であっても、数百回くり返しすと、覚えようとしなくても覚えられるという自信が生まれてくる。「暗記」を目標にすると挫折するが、「音読」を目標にすると、結果的に「暗記」してしまう。そして、「結果的に覚えた英文」の方が、「力ずくで覚えた英文」よりも、実際に使う場合に、状況に応じた自然な英文になる。

二十数年かけて、『英標』の音読を300回以上続けている。英文が勝手に頭に浮かんでくることはあるが、暗記はしていない。ただ、『英標』を音読していると、目で英文を追うよりも速く口が動くので、限りなく暗記に近い状態にあることがわかる。

ここで音読の回数を記録していくことが欠かせないことになる。音読は、10回目よりも、20回目の方が、間違いなく上手くなっていく。音読表に回数を記録しておくと、50回ならどれくらい上達しているか、100回ならどんな状態になっているか、期待を持って想像できるようになる。それは、単調な音読を続けていく上で間違いなく励みになる。

上達の度合いは、1、2、3と回数が増えるにつれ、等差数列的に上達するのではない。1、2、4、8……と等比数列的に上達していく。こうした2倍ずつ上達していく快感を得ることができれば、数百回の音読が苦にならなくなる。しかし、飛躍的な上達が実感できるのはずっと後になってからであって、1回や2回では、等差数列も等比数列も変わりはない。

かりに、音読の到達点が1,000だと考えてみよう。2、4、8、16と等比数列的に上達するとしても、1,000という到達点から見れば、取るに足らないレベルでしかない。ゴールからはほど遠い。多くの人がこの時点で音読を止めてしまうことになる。

128、256のレベルになって初めて徐々に上達が実感できるようになる。そして512になると、それは道半ばではなく、異次元の世界に突入する一歩手前であることを確信する。異次元の世界とは、『サンシャイン3』を1,000回以上音読して気づいたことだが、英文を読む速度と日本文を見て英文にする速度が同じになることをいう。一定量を超えると加速度的に上達していくメカニズムについては『脳の仕組みと科学的勉強法』(池谷裕二著)に詳しい。

音読表に関して、私は正の字の代わりに○印をつけている。10センテンスを1ユニットとし、10回読んだ時点で○をつける。1つの○は10回を意味する。

回 数 10 20 30 40 —– —– —– —– —– —– —– 180 190 200
1-10
11-20
21-30
31-40


昔、インベーダーゲームというブロック崩しのゲームがあった。ブロックを崩していくたびに快感が味わえる。音読表は、○を積み上げていくゲームだと思えば、○が増えていくたびに達成感が味わえる。○が増えていくにつれ、もっと増やしたくなる。

●『700選』の音読と英文解釈

We cannot afford to be unconcerned about China’s moves to accelerate construction of nuclear power plants. (The Japan News, Dec. 13, 2015、社説より)

「中国が原子力発電所の建設を加速してることに、われわれは不安を拭えない」という意味の英文だが、普通の高校生では歯が立たない。

cannot afford toについて、平均的な高校生がわかるのは、せいぜい、I cannot afford to buy a car.「クルマを買う余裕がない」のレベル。『700選』には、affordを使った英文が3つ載っている。

I cannot afford to leave you idle. You must take up a regular occupation.「私はお前を遊ばせてはおけない。何か決まった仕事につきなさい」(92)

What you cannot afford to buy, do without.「買う余裕がないものは、なしで済ませなさい」(209)

We must consider the question whether we can afford such huge sums for armaments.「軍備のためにこのような巨額の支出が可能かどうかという問題を考えてみる必要がある」(223)

『700選』に挙がっているこのような英文が身についていないと、上記の社説はとうてい読みこなせないということになる。

●『700選』の音読と英会話

冬の休み中に宮崎市を旅行した。シーガイアにあるホテルのカクテルバーで、米国系のスイス人カップルと一緒になった。クリスマス休暇で、毎年この地を訪れているという。話がはずみ、気がつくと午前0時をまわっていた。

高松に住んでいて、日常的に英語をしゃべる機会は皆無。ネイティブと2時間以上もしゃべったのは二十数年ぶりのこと。アルコールの力も手伝って、取るに足りない世間話だが、何不自由なく英語でしゃべることができた。英会話能力の向上には、『700選』の音読が大きく影響している。

『700選』の音読と会話力がどのように結びついているか、一例を挙げておこう。

Those who are in delicate health are apt to catch cold when the cold season sets in. 「寒い季節に入ると、からだの弱い人はとかく風邪をひきやすい」(75)

『700選』に載っている英文には、このような複文が多い。複文とは、従属節が埋め込まれた文をいう。上記の英文には3つのトピックスが埋め込まれている。

①寒い季節に入る。― The cold season sets in.
②(世間には)からだが弱い人がいる。―Some people are delicate in health.
③こういう人は風邪を引きやすい。―They are apt to catch cold.

1トピックを1センテンスでしゃべるのなら、英文はいたってシンプルなものになる。しかし、これを複文でしゃべるとなると、3つの英文を瞬時に1つに組み立てあげなければならない。組み立ての型はいく通りもある。『700選』を音読していて、自分の型と、『700選』の型が異なるたびに戸惑う。そのつど自分の型の方を修正している。それは自分の思考回路の修正に他ならない。この思考回路の修正が、自分が使える英文の型における多様性と柔軟性を生んでいる。

こうも言えるけど、ああも言えるというパターンを数多く持つことは、会話に柔軟性と余裕を生む。杓子定規に一字一句、正確に暗記したところで、実践の英会話では使えない。実際の会話は、自由気ままで、フレキシブルで、変化に富んでいる。決して硬直したものではない。『700選』の音読によって身につくのは、単語やイディオムではなく、この組み合わせの妙にある。

●奇跡のような書

『700選』は、奇跡のような書かもしれない。数十年にわたって英語を学んできて、今ごろになってこのような書に出会おうとは思いもしなかった。もっとも、奇跡のような書であると判断できるのは、数十回の音読をとおしてであって、手に取ってパラパラめくっただけでは、単なる例文集にしか見えないだろう。

『700選』の音読を始めて3ヶ月になる。いま70回目を読んでいる。回を重ねるごとにスピードが加速している。このペースでいけば、数ヶ月で200回に達する。

ある朝、目覚めると、意識がぼんやりと、そこが自分の部屋であることを認識し始める。壁があって、窓があって……、するとこんな英文が勝手に頭のなかを流れ出した。

In the middle of the wall at the back of the room is a large window.(205)

2016年01月14日