『700選』の暗記は挫折する 

 

音読のすすめ(15)

●カスタマーレビュー

受験生のあいだで、『新・基本英文700選』(駿台文庫)の人気はすさまじい。アマゾンのカスタマーレビューに、購入者のコメントが載っている。以下はその要略 ――

・英文を書こうとするときに、テンプレート(ひな型)がたくさんあるかないかで雲泥の差がつく。英語の文献や文学作品を読むつもりなら、当然この程度の構文はあらかじめ知っておかなければ話にならない。

・『英文解釈教室』が「最も心に残った教材」なら、この本は「最も役に立った教材」。TOEICは900点。仕事で英語を使っている。流暢とは言えないまでも困らない程度に喋れる。辞書を使えば英文を書くことに不自由はしない。

・60歳代後半だが、700英文を104分で復唱できるようになった。現在、120回目を完了。すばやく反射的に言えればそれだけネイティブに近づけたことになる。

・いやはや、恐るべき例文集。ひたすら音読し、CDを聴き、700文全てを暗記した。TOEICは550点→700点→840点→920点と急上昇。現在4回連続で990点取得中。アメリカ人留学生、大学教授との会話やメールのやりとりで困ることがなくなった。『700選』は、「速読力」「リスニング力」「作文力」「会話力」と、英語の能力を総合的に高めてくれる。大学受験、TOEIC、TOEFL、英検の対策に有効。

・高校2年のときの偏差値は35。夏休みに暗記を開始。1日あたり20例文を暗記。夏休み明けの模試で偏差値が70に。この本で人生が変わった。私には奇跡のような本。若いときの1ヶ月をこの本に捧げれば、生涯にわたっての財産が手に入る。

・大学に入って英検1級に合格。貢献度が最大だったのはこの本。普通の暗唱文集ならまず出てこない倒置型の文なども、腹をくくって覚えるといい。こういう文を身に付けておけば、どんな英文に出会っても、怖いものはなくなる。

・最高の英語教材をあげるとすれば絶対にこの1冊。高校時代にこれを暗記し、アメリカ留学当初もこれを聴いていた。構文、文法、発音、単語、リズムを同時に身につけるには、この本が1番。反復学習を若いうちにやっておくとその後の伸びがぜんぜん違う。――

●暗記する前に文法的な理解を

『700選』を暗記しようとする読者は多い。一見すると簡単に暗記できそうに見える。本書のレイアウトがその気にさせる。右ページの和文を見て、左ページの英文がスラスラ言えたら、だれしもカッコいいと思う。これさえ覚えれば……、と意気込んで暗記に挑もうとする。だが、途中で投げ出す人は9割以上だろう。いや、挫折率は97%を超えるかもしれない。それぐらい本書の暗記はむずかしい。

いきなり暗記に挑む前に、とりあえず、『700選』は「英文解釈集」だと考えるといい。大学ノートに1文ずつ書き写し、正確に訳していく。「正確に」というのは、「感覚的に」の反対で、フィーリングで読むのではない。高校生で、一応の英文法がわかっていても、700文のうち、1/4はまったく訳せないし、1/3は訳せても文法的には納得がいかないだろう。頭でわかったつもりでも、書けば誤魔化しはきかない。自分の無知があぶり出される。

185. It isn’t what he says that annoys me but the way he says it.
私が不愉快に感じるのは彼の言うことではなくて、その言い方です。

・Itは何か → Itは強調構文のIt
・butは「しかし」ではなく、not A but Bのbut
・通常の強調構文なら、It is not A but B that annoys me. となる。
・これは、but Bが強調の範囲外に飛び出た文:It is not A that annoys me, but B.
・まれに起こる例外ではなく、よく目にする英文。

206. From small beginnings come great things.
小さな一歩が大きな結果を生む。

・文法力のない生徒なら、これをSVOの第3文型と勘違いするだろう。
・From small beginningsはSではない。前置詞句がSになることは決してない。
・comeは「~を生む」という他動詞ではなく、あくまで自動詞。
・この文は、Great things come from small beginnings.がひっくり返った文。

373. He raised his hands as if to command silence.
彼は静粛を命じるかのように手をあげた。

・as if節の中身はどうなっているのだろう?
・S+beの省略:as if (he was) to command silence
・S+be の省略はよく起こる現象:While (she was) in Japan, she bought the camera.
・he was to command のbe toは「願望」の助動詞。

このように本書の英文にじっくり向き合えば、かなりの英文が実際にはよくわかっていないことに気づく。

●何百ページもの英文に匹敵

本書について、著者の伊藤和夫氏は次のように言っている。『英語の学習法』(駿台文庫・P104)からの要略 ――

学生:『基本英文700選』を覚えろということですか。
伊藤:何もそんなことは言っていない。
学生:あの本を全部覚えた人は一人もいないとも聞きました。

伊藤:全部覚えたという人を、おおぜい知っているよ。最後までやらなければ力がつかないというものでもない。途中で投げ出した人がいるのは分かるが、覚えれば覚えただけのことは必ずある。覚えようとしていったん意識の底に沈めたものが、完全に消滅することなど決してない。『700選』を覚えることからは、何百ページの英文を読むことに匹敵する効果があることも忘れないでもらいたい。一つひとつの英文は忘れてもいいから。

●検索エンジンが動き出す

私自身は、淡々と音読を繰り返している。現在40回目を読んでる。40回であっても、英文がどんどん身体になじんでくるのがわかる。伊藤和夫氏が言うように、音読をとおして英文が意識の底に沈んでいくのだろう。これだけでも十分役に立つ。

次の正誤問題を解説しようとして、行き詰まったことがある。

He is a very diligent student, who his brother was not.(立教大学)

whoが誤りであることがわかっても、どう訂正したらいいか戸惑った。こんなとき、《似たような英文が『700選』にあったはず》と、頭のなかの検索エンジンが動き出す。ほんの数秒で、同類の英文を見つけ出すことができた。

457. They thought him dull, which he was not.
彼らは彼を愚鈍と思ったが、彼はそうではなかった。

この例文と問題文を照らし合わせると、訂正するのは、who→whichだとわかる。『ジーニアス英和辞典』には、whichは「人を表す名詞・形容詞を先行詞として……」とある。whichが「主格」や「目的格」ではなく、ここでは「補語格」になっている。通常の文法知識では歯が立たない。『700選』の例文が頭に浮かばなければ、教師としてお手上げ状態になっていたかもしれない。

●膨大な数のデータ・ベース

分詞構文を扱った次の例文は、ヘレン・ケラーの”The Story of My Life”から引いているのに気づいた。

418. I stood still, my whole attention fixed on the movements of her fingers.
私は彼女の指の動きにあらゆる注意を集中してじっと立っていた。

原書は読んでないが、『英標』の練習問題【102】に、同書の冒頭部分があり、そっくり同じ文が載っている。『英標』は、300回あまりの音読をくり返してきたので、どこに何が書いてあるかは熟知している。

分詞構文の例文を挙げるのに、わざわざ由緒ある原書から引いているということは、例文の大部分は、出処の確かな書籍や印刷物から採ったものなのだろう。見た目のシンプルさとはうらはらに、本書の背後には、膨大な数のデータ・ベースがひそんでいると想像できる。

黒澤明監督は、映画『用心棒』の撮影で、カメラに「におい」は写らなくても、撮影現場に「血のにおい」を漂わせたという(編集手帳・2015.11.3)。巨匠は見えないものにまで神経を使う。

本書がありきたりの「例文集」と異なるのは、それぞれの例文が持つ臨場感にある。文脈から切りはなされた短文であっても、どんな状況かが想像できる。418番を読むと、サリバンがヘレンの手のひらにwaterの文字を綴る感動の場面が浮かんでくる。

●がむしゃらに覚えろとは言ってない

本書のとびらに、「利用法」が載っている。――

1. 和訳の練習をする。まず、左ページの英文を和訳する。不明な箇所は辞書で調べる。必ず自分で訳す。その上で、右ページの日本文と対照する。

2. 英作文の練習をする。右ページの日本文を見て、左ページの英文がすらすら言えるようになるまで暗唱する。英作文に上達する道はこれ以外にない

3. CDを聴く前に、英文を理解しておく。CDから聞こえてきた英文をすぐに復唱する。聞こえてきた英文を紙に実際に書く。聞こえてきた英文をすぐに日本文に訳してみる。以上の作業をくり返す。1文ごとにくり返し聴いてみる。全体を通して何回も聴き、聴き取り量を増やす。そうすれば、意識しなくても「正確に聴き取れて意味もわかる」という質的変化が必ずやってくる。――

結局、当たり前のことを当たり前にやれと書いてあって、がむしゃらに暗記しろとは書いてない。完璧に暗記したかどうかが問題ではない。暗記しようとする行為にこそ意味がある。

367. It is hard to fail, but it is worse never to have tried to succeed.
失敗するのは辛いことだが、成功しようと試みたことがないのはもっとまずい。

548. Success is not so much achievement as achieving.
成功とは、達成物ではなくむしろ、達成する行為のことである。

堅苦しい文ばかりが並んでいるわけではない。こんな文に出くわすと思わずホッとする。

444. 美しいということは、無視することがほとんど不可能な推薦状のようなものである。(英文は本書を参照)

2015年12月06日