生徒を苦しめるだけの校内模試
●手強い問題
“If all mankind minus one,” cried Mill, “were of one opinion, and only one person were of
the contrary opinion, mankind would be no more justified in silencing that one person, than
he, if he had the power, would be justified in silencing mankind.” (高3・2024年第2回校内模試)
この英文を、単にざっと目を通すだけで済ませず、実際に訳してみて欲しい。紙と鉛筆を用意し、必要に応じて辞書を使い、丁寧に訳文を書いてみて欲しい。
なぜこんなことを言うかというと、この英文を訳すことが、いかに難しいかということを実感してもらいたいからである。難しいというよりも、並みの英語力や国語力では、まったく歯が立たないはずである。
この問題を見たとき、これが1985年の一橋大学の入試問題であることが一目で分かった。なぜなら、20年ほど前に、塾の教材として取り上げたことがあったからだ。この問題の解説にはそうとう苦労した。たっぷり1時間はかけたように思う。当時は、チュンプルズ(自家製参考書)はまだ未完成で、その解説は、ホワイトボードに1回では書き切れず、何度も消しては書いてをくり返したように思う。
当然のことだが、私の現在の力量は当時と比べて、何倍も向上している。さらに、チュンプルズを使うので、板書する必要はない。それでも、この英文の疑問点を余すところなく教えようとすれば、少なくとも20分はかかると思われる。それぐらい難問なのである。
●主要なポイントは2点のみ
以下は、この高校の発表した「講評」である。
この問題は、知らない単語はほぼ皆無であったにも関わらず、読めなかったり、誤読をした人が続出しました。英文解釈では「比較」「倒置」「強調」「省略」が、最難関かつ頻出項目です。今回は「比較」がポイント。かつ、正確に読んでいけば、接続詞「if」は譲歩の「even if」だと分かります。(講評)
①比較がポイント ②ifはeven ifである
この教師の解説によれば、この2点を理解すれば、この英文が分かるというのである。生徒はこう思うだろう。
「そうか、これは比較の文だったのか」「この英文のポイントは比較だなんて思いもよらなかった」「言われてみれば、その通りだ」「文中にmoreがありthanがある」「まぎれもなく比較の文だ」「こんなことに気づかなかったとは、うっかりしていた」
「ボクは、ifが出てくるたびに、順接なのか逆接なのか、いつも迷う」「ifがeven ifだと分かるには、正確に読まなければいけないのか」「そうか、正確に読むなんて、いままで考えもしなかった」「学習ガイドブックには、想像力で読め、大ざっぱな意味をつかめ、これが一番大事なこと、と書いてあるんだけど」
「でも、他の印刷物ではこうも言っている」「しっかり読め」「ちゃんと読め」「がんばってやれ」「そうすれば、きっとできるようになる」「しっかり読むが、キーワードなのだ」「でも、しっかり読むって、どんな読み方?」「質問したら、しっかり読むは、ちゃんと読むこと、だと教えてくれた」
「講評を読むと、いつも目からうろこが落ちる。講評には、必ず発見や気づきがある。問題を出しっぱなしにせず、こんな分かりやすい講評をわざわざ書いてくれる先生方には、ただただ感謝しかない」
●a loving wifeの意味
この問題文についての私の分析は異なる。
「知らない単語はほぼ皆無であったにもかかわらず」と書いてあるが、単語の意味を知っているかどうかは生徒の事情であって、教師の側が一方的に決めつけるものではない。生徒は、たいてい見慣れた単語だから知っていると思い込んでいる。この思い込みを正すのが教師の役割である。次の文は「英標」からの引用である。
A loving wife will do anything for her husband.
これを、「愛する妻は夫のためなら何でもする」と訳す生徒は多い。多いというよりもほぼ100%そう訳す。しかし、「愛する妻」とはどういう妻か。「夫が愛する妻」なのか、「夫を愛する妻」なのか。どちらも間違いである。
lovingの意味を知ろうと、わざわざ辞書を引く生徒はいない。なぜなら、lovingはlove+ingだから、分かっていると思い込んでいる。他動詞の現在分詞がどういう意味を持つかは文法的に導き出すことができるが、この高校が推奨する『チャート式』では、そんな実力はつかない。
You can’t read too many books but you can read too few.
これは、私のお気に入りのフレーズで、洗練された「読書論」である。簡単な単語が並ぶだけだが、これが正しく訳せた受験生には、お目にかかったことがない。
本文中のminusの意味は「マイナス」だから、既知の単語だと考えるのは早計である。minusは前置詞である。(minus one)のかたまりは、前置詞句を形成し、後ろからall mankindを修飾する。しかし、昨今の文法軽視の風潮では、minusを前置詞として認識できる生徒はいない。したがって、minusは自明の理としてスルーしていい単語ではないのである。
●「比較」と「even if」の2点で片づく?
ifをeven ifとして訳すことに異論はないが、この教師は、それがあたかも最優先事項であるかのように言う。ifを順接でとるか逆接でとるかは、取るに足らない問題である。いわば、どうでもいい話である。If it rains, I won’t go out.を、①「雨が降れば出かけない(順接)」と訳しても、②「雨が降っても出かけない(逆接)」と訳しても、大差はない。
それよりも、この英文の肝は、単なる比較ではなく、no more than の形をとる、いわゆるクジラ構文であるということである。
A whale is no more a fish than a horse is.(クジラが魚でないのは馬が魚でないのと同じだ)
クジラ構文が理解しづらいのは、それが表面上は肯定文でありながら、強烈な否定を意味するからである。クジラ構文では、A≠Bを言うために、C≠Dを引き合いに出す。しかし、形の上では、あくまでもA=BはC=Dと表現する。
クジラ構文が意味するところは:
①クジラが魚である度合いは、馬が魚である度合いを超えない。
②馬が魚である度合いとは、あり得ない度合いである。
③したがって、あり得ない度合いを超えないのだから、決してあり得ないとなる。
クジラ構文は古くさい、受験英語でしか見ない、という意見があるが、そんなことはない。最新のニュース記事でも普通に目にする。それは、われわれが日常生活で、こんな言い方をするのと同じである。
「キミがパリコレでスーパーモデルとしてデビューするのは、ボクがノーベル賞を取るのと同じだ」「キミがドーバー海峡を泳いで渡るなら、ボクはエベレストに装備なしで挑む」「キミがトム・クルーズとデートするなら、ボクはテイラー・スイフトとデートする」
●部分と全体の関係
クジラ構文を教える際、私は次の4つの形態のうちの1形態としてクジラ構文を位置づけている。
①A is not more important than B is. (AはBほど重要ではない)
②A is not less important than B is. (AはBと比べて重要度は劣っていない)(同様に重要)
③A is no more ~ than B is. (A が~でないのはBが~ではないのと同じだ)
④A is no less ~ than B is. (Aが~であるはBが~であるのと同じだ)
また、問題文に出てくる仮定法についても、仮定法過去だけを説明するのではなく、私は、仮定法の次の4区分すべてを説明することにしている。部分と全体の関係を示す方が、仮定法の理解は深まるからである。「仮定法過去」「仮定法過去完了」「仮定法現在」「仮定法未来」
この問題文が難しいのは、①「クジラ構文」・②「仮定法」・③「教養」の3点が密に絡み合っていることにある。「教養」とは、「少数意見の尊重」と「権力の横暴を許すな」という民主主義の基本が分かる知識を指す。この知識を欠くと頭が混乱する。なぜなら、表面上は肯定しながら強烈な否定を表すのが「クジラ構文」であり、事実をひっくり返して、あべこべに表現するのが「仮定法」だからだ。
以上が、私がこの英文を解説するのに1時間を要する理由である。
訳:「一人を除いた全人類が同じ意見であり、反対の意見を持った者が一人しかいないとしても、この一人の人間の口を封じることが正当化できないのは、この人物に権力があったとしても、全人類を沈黙させることが正当化できないのと同様である」とミルは力説している。
●この高校の英語教師は、自分が作った模試を何分で解き、得点は何点なのか
以下はこの模試の各問の所要時間をつぶさに試算したもの。(生徒の英文を読むスピードは100語/分とした)
【第1問】 リスニング問題。放送時間は不明。所要時間は15分とする。(要15分)
【第2問】 下線部訳の問題。冒頭に取り上げた「クジラ構文」を含めて、全部で3題。1問につき15分、3問で45分。(要45分)
【第3問】 約200語の英文の和文要約。最速でも20分。 (要20分)
【第4問】 長文の語数は811語。設問も選択肢も英文で、その語数は398語。本文と合計すると1209語。3回通読すると延べ語数は3627語。所要時間36分。(要36分)
【第5問】 長文の語数875語。3回通読すると延べ語数は2571語。読むのに25分。設問(空所補充1問、内容真偽1問、並べ替え1問。下線部訳2問、段落の要約1問)の解答に35分。計60分。(要60分)
【第6問】 『英標』から5題。総語数は770語。3回の通読で23分。日本語文の記述が2問。プラス7分。計30分。(要30分)
【第7問】 会話文。語数は353語。やさしい文なので2回の通読で7分。(要7分)
【第8問】 アクセント、発音、語彙の問題、および221語の文章から誤りを見つける正誤問題。3回の通読で7分、思考時間3分。計10分。(要10分)
【第9問】 並べ替えが2題で2分、英作が2題で20分、自由英作が20分、計42分。(要42分)
以上、各問を解答する際に要するであろう時間を子細に試算してみた。合計は265分。すなわち4時間25分。架空の話だが、開始が午前9時00分なら、終了は午後1時25分になる。異様な長さである。
この校内模試の制限時間は130分。私の試算(265分)の半分以下である。平均すると大問1問につき15分のスピードで解かなければならない。
こんなことを考える。この高校の英語教師全員に、同じ問題を、同じ時間内で解いてもらうのである。プレッシャーの中でこの問題を解くことが、いかに過酷かを体験してもらうのである。そして、各教師の出来を採点し、生徒と同じストレスを共有してもらうのである。そうすれば試験のあり方が変わるかも知れない。「講評」に脳天気なコメントを書く教師が減るかも知れない。ひょっとしたら、成績のボトムに、あり得ないレベルの教師がいるのが見つかるかも知れない。
●プロでも不可能
【第2問】の下線部訳は3題。冒頭に挙げた「クジラ構文」の英文がそのうちの1題。同レベルの3題を15分で解答するということは、1題につき5分で解答しなければならない。
この「クジラ構文」の英文は、私のように一読してその意味が理解できても、その訳文を正しく書くことは別の話である。私でも5分ではとうてい足りないのである。なぜなら訳文を書くには高度な国語力が求められるからである。
「講評」は、「正確に読んでいけば、譲歩だと分かります」などと、ピントのズレたことを言う。この教師に英語力がないことは明白である。かりに英語力がありながら、いい加減な解説をしているのであれば、教師としての使命感がないのだろう。熱意も誠意もない教師から教わる生徒は、たまったものではない。
さらに「講評」の稚拙な文章から読み取れるのは、この教師には国語力もないことである。英語力と国語力は相関する。模範解答にあるような訳文は、この教師の国語力では、1時間かけても書けないだろう。自分が書けもしない訳文を、生徒に5分で書けと要求しているのである。
どこかから、適当な「英文」とその「訳文」を見つけ出し、それをコピペした問題を作り、愚にもつかない「講評」を書き、あとは知らんぷりをしているのが、この教師のやっていることである。この問題に悪戦苦闘した300名近くの生徒に対して、以後、何の解説もせず、何の責任も取らないのである。この教師の唯一の指導法は、「正確に読めば分かります」、なのだ。
●ワラワラが透けて見える
【第3問】の要約問題は、生徒が最も苦手とする形式の問題である。マークシート方式で4つの選択肢から正解を選ぶ、お気楽な問題とはわけが違う。所要時間を20分と甘めに試算したが、教師も含めて生徒の文章を書く能力は極めて低い。要約文を書くのに30分から40分かかってもおかしくない。
余談だが、要約力は実生活の面では最も有益な能力である。日常会話は要約でできている。「あの映画どうだった?」「あの映画はこうだった」「旅行はどうだった?」「あの旅行はこうだった」「あの試験はどうだった?」「あの試験はこうだった」。これらは、すべて要約である。東大が1950年代から現在に至るまで欠かさずにこの要約問題を出題し続けるのもうなずける。
【第4問】の「講評」では、「15分以内で処理できましたか」とある。設問が10問あるので、解答するのに1問につき1分かけると、10分かかる。したがって811語の本文を5分で読むことになる。そうであれば162語/分となり、生徒の読解レベルでは荒唐無稽な速さである。
この教師は自分が日々教えている生徒の英文を読むスピードを知らないのである。SNS上で、「WW」「笑笑」という文字を見かけることがある。私には、「15分以内で処理できましたか」の裏に、「ワラワラ」という生徒を嘲笑する文字が透けて見える。
●われわれ教師はエラいんだぞ
【第5問】 この並べ替え問題は難問である。私自身、数分考えても解答できなかった。「講評」には、「正答率が低かった」とだけある。きちんと公表してはどうか。おそらく0%だと推測する。生徒のだれも解けない問題、プロでも解けない問題を出す意義などあるはずがない。ここでも、「ワラワラ」の嘲笑文字が透けて見える。
ここには、「下線部訳」と「要約問題」が再び登場する。同質の問題のくり返しである。全体を統括する人物がいないのである。手書きによる模範解答の筆跡から、数人の教師が寄ってたかって好き勝手に問題を作成したのが読み取れる。問題の作成は、編集した形跡がなく野放し状態なのである。
この試験の合計点は125点という半端な数字になっている。各教師が好き勝手に作った結果、半端な点数になったのだろう。生徒の話では、平均点の33/125点は、26/100点と換算して発表されたらしい。
正答率が0%の問題を出しても、同質の問題がダブっても、点数を加工しても、お構いなしなのだ。ろくに編集会議も開いていないのだろう。26点という異様に低い平均点に対しても教師に反省はない。むしろ、こんな難問を出す教師はエラいんだぞ、とでも言いたいかのようである。
どの教師がどの問題を出し、どんな「講評」を書いたかを、記名にすれば、この高校の英語教師の無責任体質が少しは改善されるかも知れない。いや、そんな期待は持てない。なぜなら責任をとる覚悟のある教師など、この高校にいるはずがないからである。
●この教師の「人生の指針」とやらを聞きたいものだ
【第6問】の講評:英標の問題でしたが、これで英標がテスト範囲に入るのも終了です。英文を十分に堪能しましたか。「人生とは何か」ということを問うている文章ばかりです。お気に入りの一節を頭に入れて、今後の人生の指針にしてください。
私は、「英標」に載っている全220編の文章をすべて熟知している。今回のこの【第6問】については、記述部分は口述で片づけ、2分で処理した。前回の「英標」の問題は1分もかからなかった。自慢しているのではない。「英標」に精通していることを言いたいだけだ。
この教師は、「英標」は「『人生とは何か』ということを問うている文章ばかり」だと言う。しかし、「英標」の全編を何百回となく読んできた私の印象は異なる。奇妙なことに、「人生とは何か」というくくりで要約できる文章には、220編のなかで1編たりともお目にかかったことがないのである。
この教師の解釈によれば、「アクション映画を観ても、人生とは何かを問う映画だった」「ホラー小説を読んでも、人生とは何かを問う小説だった」「お笑い番組を観ても、人生とは何かを問う番組だった」となるのだろう。
この教師が、「英標」のどの一節が気に入り、どんな「指針」を頭に入れて人生を送っているのか興味津々である。生徒にそう勧めるのは、自らの実践の裏付けがあってのことだろう。教師は生徒の憧れの対象であり、ロールモデルである。この教師が積極的に実例を示せば、生徒の学習に大きなインセンティブになるだろう。
「英標」で、ヘミングウエーはこう言う。「作家は、自分の知っていることを省略してもよい、本当のことを書いてさえいれば、読者はそれを感得する」。さらに、こう続ける。「物事を知らないために省略する作家は、自分の書いたものに穴ぼこをこしらえているだけである」
同じく「英標」で、アーノルド・ベネットはこう言う。「われわれの心のなかには試金石があって、ある本が誠実で正しいかが吟味できる。誠実さは、人生と同じく文学においても、徹頭徹尾大切な性質である」
この二人の偉大な作家に共通するのは、「違和感を感じろ」「自分の直感を信じろ」ということである。教師、政治家、セレブの口から出る言葉がどんなに立派であろうと、そこに胡散臭さを感じたら、私はその胡散臭さを感じる自分の感性の方を信じるようにしている。これは、私が「英標」から学んだ「指針」のひとつである。
●「会話文」を読むことが「英会話」なのだ
【第7問】 再び長文が登場する。「また長文か」と、いい加減うんざりする。いったい何度、長文を読ませたら気がすむのか。この高校の言い分はこうだろう。
「また長文かというが、よく見て欲しい、同じ長文でも形式が違う」「これは、れっきとした会話文なのだ」「『学習ガイドブック』には、はっきりとこう書いてある」「『聞くこと』『話すこと』『読むこと』『書くこと』の活動について、いずれかに偏ることがないように学習します」「読むことばかりに偏ってはいけないのだ」「この問題は読解力を問うているのではない」「会話能力を問うているのだ」「この問題では、どれだけしゃべれるかを測っているのだ」
この高校の考えでは、「海で実際に泳ぐこと」と「教室で水泳の教本を読むこと」が同じなのだ。「講評」はこう言う。「全問正解している者もいましたが、(3)を間違えている人が多かった」。たったこれだけである。(3)の誤りの原因と会話能力との関連を解説してはどうか。
この会話問題の配点は5点。全体の125点に対して、わずか4%である。「偏ることがないように」というのなら、英会話は4技能のうちの1つ、すなわち25%でなければならない。しかし、それには遠く及ばない。会話軽視も甚だしい。
そもそも、この高校がスピーキングの授業を行い、スピーキングの実技試験を行うというのを聞いたことがない。文科省の指導要領では、「英語の授業は英語で行うことを基本とする」とある。すなわち、英語の授業はオール・イングリッシュで行え、というのである。
しかし、この高校がオール・イングリッシュで授業を行っているというのを聞いたことがない。それでいて、文科省に対して異議を唱えるわけでもない。要するに、自分がやっていることの矛盾に自覚がないのである。
こんな例もある。英語には次の2科目がある。「学習ガイドブック」に、それぞれの目標が掲げられている。次の枠内の文章を読み飛ばさずに丁寧に読んで欲しい。
【英語コミュニケーション】 「聞くこと」「読むこと」「話すこと(やりとり)」「話すこと(発表)」「書くこと」の5つの領域の総合的な学習を通して、聞いたり読んだりしたことの概要や要点を目的に応じて捉えたり、基本的な語句や文を使って情報や考え、気持ちなどを話して伝え合うやりとりを続けたり、論理性に注意して話したり書いたりして伝えることができる。
【論理・表現】 「話すこと(やりとり)」「話すこと(発表)」「書くこと」の3つの領域を中心とした発信能力の育成を強化することを目指す。特に、スピーチ、プレゼンテーション、ディベート、ディスカッション、1つの段落を書くことをなどを通して、論理の構成や展開を工夫して話したり書いたりして伝えるまたは伝え合うことができる。
頭がクラクラするほどの名文である。【論理・表現】の説明が、見事なまでに「ろんり・ひょうげん」になっていることに驚く。この高校の教師は、この「目標」を念頭に、さぞ「論理的」な授業を行っているのだろう。
「魚屋」はサカナを売っているから「魚屋」なのだ。「魚屋」の看板を掲げ、わけのわからないものを売っていたら、「おまえは何屋だ?」と、普通は、商店街から追い出されるのだが。
●安易な学習が助長される
【第8問】 基本的に「アクセント」「発音」「語彙」の問題。配点は14点。所要時間は10分と試算したが、単語を知っているかどうかの問題であり、5分で処理できたとしてもおかしくはない。
一方で、【第2問】の下線部訳の配点は12点。45分かけて訳文を書いても満点は望めない。生徒は、<45分で12点をゲットする>のと、<10分で14点をゲットする>のは、どちらが得かを考える。
医師が手術の成功率で評価されたら、複雑な手術は拒否するようになるだろう。警察が検挙率で評価されたら、何年もかけて1人の組織犯罪の黒幕を逮捕するよりも、100人のコソ泥を逮捕するようになるだろう。
生徒は、英文をじっくり読むよりも、英単語を覚えた方が得だと考えるようになる。英語につまずいている生徒は、例外なく単語の暗記に明け暮れる。人間の思考は安易な方を好み、怠惰な方向に流れる習性があるからだ。
ここで配点の不合理を非難しているのではない。配点は恣意的なものである。そこには客観性も合理性もない。ある教師がある問題を7点とし、別の教師が同じ問題を3点としても、それは、それぞれの教師の裁量であり、価値観であり、主観である。他人がとやかくいう問題ではない。
しかし、能力の数値化は、序列と競争を生み、幼稚な「くらべっこ」が始まる。生徒は点数と順位に一喜一憂し、「何を間違えたか」「どこでつまずいたか」などはどうでもよくなる。教師の方は、点数というデータだけを重視し、自分が出題した問題の責任はとらない。
26点という平均点が意味するのは、74%の箇所について生徒は理解してないということである。理解してないところを理解させるのが教師の役割である。この高校の教師は、その役割を果たしてない。中身が空っぽの「講評」と称する1枚のわら半紙で、あたかも責任を果たしたかのようなフリをする。姑息なアリバイ作りに他ならない。「講評」を読んで納得がいったという声など聞いたことがない。
私は、塾生の能力を数値化したことは一度もない。分からないところを分かるように教えているだけである。40年間、それで何の不都合も感じたことはない。
幼稚な「くらべっこ」が、学校生活を暗いものしている。採点という数値化を止めるか、校内模試そのものを廃止すれば、教師にとっても、生徒にとっても、ずいぶん明るい高校になるだろう。
●なぜ英語を学ぶのか
【第9問】 英作の問題が並ぶ。国語力がものを言う。
「国際化の時代だから英語が必要である」は、まやかしである。ごく一部の国際人を除いて、ほとんどの人は英語などできなくても何不自由なく暮らしている。周りをにいる人たちを観察するといい。「ショッピングモールの買い物客」「通勤電車の乗客」「道路工事で働く人々」「両親や祖父母、親戚の人々」、誰も英語など必要としていない。映画は字幕や吹き替えで楽しめる。文学作品も学術論文も翻訳で読める。日本という国は、英語などできなくても幸せに暮らせる恵まれた国なのだ。
では、「なぜ英語を学ぶのか」。それは国語力を磨くためである。日本語とはまったく異質な言語を学ぶことで、結果的に日本語が磨かれるのである。われわれは日本語で考え、それに基づいて行動する。われわれの活動のすべては、母語である日本語によって支えられているのである。
「英標」で、ジョージ・オーウェルはこう言う。「英語を書くことは、話すことでさえ技術である。具体的な語が抽象的な語よりもよく、最も簡潔な表現法がいつでもいちばんいい」。「具体的な語」「簡潔な表現法」を心がけるとき、それが英語であろうと、そのことを考えるのは日本語である。
日本人である以上、日本語をベースに思考する。英文を書く能力の半分は国語力である。私は、英語をしゃべっていても、日本語脳がバックグラウンドでフル稼働しているのを感じている。「どう話を組み立てるか」「どういうセンテンスにするか」「どういう語を使うか」、これらを瞬時に行うのが英会話である。英会話を裏で支えているのは日本語力である。
「英標」は、英文作品の見事なラインアップで賞賛される。私は、それだけではなく、著者の原仙作氏の訳文の見事さにも注目している。「英標」に、ヘミングウエーの『老人と海』の一節が載っている。
そこに、coiled lines ということばが出てくる。coiled lines とはcoiled fishing linesのことである。fishing lineは辞書には「つり糸」とある。しかし、ここでは「釣綱」と訳されている。では、なぜ「つり糸」ではなく「釣綱」という、いわば造語のような訳語が充てられているのか。
「少年が浜辺に行き、老人を手伝い、coiled linesを運んでやる」、というのが話の筋である。coiled linesを、「つり糸」と訳したのでは、つじつまが合わない。なぜなら「つり糸」からくるイメージは、ひょいと片手でつまんで運べるほどの大きさでしかない。少年がわざわざ運ぶのを手伝うほどの物ではないからだ。老人が釣ろうとしてるのは巨大マグロであり、「つり糸」では用をなさないのだ。
この箇所は、『老人と海』(福田恆存訳・新潮文庫)では、「巻綱」と訳されている。福田恆存は偉大な翻訳家である。原氏の訳文は、受験参考書の訳文の域に留まらず、プロの翻訳家のものと比べても遜色がない。
こうした精緻な訳文は、豊富な読書量に基づくものだろう。では、その豊富な読書量とはどれくらいのものか。「英標」には220編の作品が載っている。おそらくその数倍から十数倍の読書量、すなわち数百冊から千数百冊の洋書を読んでいたのではないかと思われる。原氏のことばに対する「誠実さ」や「感性」を担う国語力は、大量の英文を読むことで育まれたものではないかと、私は推測する。
最後に、原氏の訳文の対極にある文章を挙げておこう。いちいち、その「誠実さ」のなさ、「感性」のなさを、あげつらうのはやめておく。解説などしなくても誰にでも分かるツッコミどころが満載の文章である。以下は、この高校の「英標」の紹介文である。
「英文標準問題精講」には、大学入試に出てくるすべての文構造が入っています。個別試験の準備にうってつけの教材です。また、どの文章も英米の偉大な文豪、評論家、哲学者、科学者などによる名文ばかりです。どの問題に取り組んでも、必ず皆さんの視野を広げ、新しいものの見方を与えてくれるでしょう。
学習の仕方ですが、まずは文章の流れをたどって大まかに意味をつかみます。次にすべての文構造を正確につかんでください。その際に比喩的表現が具体的に何を表しているのか、句や節の特殊な配列が何を目的としているのか、なども考えるようにしてください。特殊な表現にはすべて理由があります。文章の意味がすべて理解できたら最後に数回音読してください。
各自の計画に基づいて、何度も繰り返し、継続的に学習を進めてください。分からないところがあればいつでも英語職員室へ質問に来てください。
●日本文化の矜持
アリス・マンローというノーベル文学賞を受賞したカナダの女流作家がいる。「現代短編小説の巨匠」といわれている。同氏の作品の翻訳者が小竹由美子さんである。小竹さんは、私と同じ町内に住んでいる。小竹さんから翻訳の話を伺ったことがある。
翻訳者には校正者が付く。てっきり誤字脱字を見つけるのかと思いきや、原文と照らし合わせ、解釈や表現に至るまで齟齬(そご)がないかを一文一文チェックするという。さらに、「本校」と呼ばれる校正の責任者がいて、ダブルチェックをするそうだ。
校正者は裏方であり、翻訳家のように表に出ることはない。いわば縁の下の力持ちである。しかし、大手出版社には、脚光を浴びることはなくても、翻訳家に匹敵する英語力を持つ校正者がゴロゴロいるのである。
もうひとつ驚いたことがある。小竹さんから、こう言われた。「翻訳文学の読者数を知っていますか、3000人ですよ」と。出版社にしてみれば、ノーベル賞作品といえども、初版数千部では採算は見込めない。それでも、ノーベル賞作品を出版するのは大手出版社の矜持なのである。
大手出版社は多くのベストセラーを手がける。そこで得た利益を社会に還元するのは当然の義務であり、採算など度外視しても、優れた翻訳作品を世に出すことは、出版社の社会的使命だと考えているのである。
こうした心意気を持つ出版社や、脚光には無縁の校正者が日本の翻訳文化を陰で支えているのである。これが日本文化の懐の深さであり、われわれ日本人の誇りでもある。
●いま、そこにある危機
危惧していたことが起こりつつある。「ノーベル賞時 邦訳なし」(読売オンライン・2023/11/02)と題する記事がある。ノーベル文学賞を受賞した作品が邦訳されていないという事態が相次いでいるという。翻訳大国といわれた日本文化が確実に衰退していってるのである。
『ダビンチ・コード』などの翻訳で知られる越前敏弥氏は、『日本人なら必ず誤訳する英文』のなかで、翻訳学校で教えてきた経験から、こう指摘する。
・日本語力と英文の読解力は完璧に比例する。
・日本語の語彙が貧困なら、英語の語彙も貧困である。
・わかりにくい日本語を書く人が、英文を読むのが鋭い、はない。
・訳出するという作業によって2つの言語を行き来する。これによって、両方の言語の特性がより深く理解できる。
・「訳す」という作業を英語学習に採り入れた方がいい。
・何を勉強すべきかと言えば、大学受験の参考書以外にない。
・英語の読み方が、最も高いレベルで解説されているからだ。
・仕事のレベルで、かぎりなく正確に読むことが求められるのであれば、どこかで英会話主体の英語学習から卒業しなければならない。
・構文解析のような地道な勉強をある期間徹底してやる必要がある。
・日本語に対しても、英語以上に敏感にならなければならない。
・大学受験で本格的に英語を勉強した人とそうでない人のあいだには、明確な差がある。
・受験勉強をしっかりやった人は、ものごとの追求の度合いが深い。
越前氏の指摘は、現在の英語教育への提言でもあり、英語教師のあり方への指摘でもある。「朱に交われば赤くなる」ということばがある。私は、私自身が公教育の場で教える英語教師でないことをつくづく幸運なことだと思っている。フリーランスの英語教師であることを誇りに思っている。
1972年にノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサは、受賞後のインタビューで「世界平和のために私たちにできることは?」との問いにこう答えたという。「家に帰って、あなたの家族を大切にしてあげなさい」
私の英語教師としてのミッションは、「すぐ目の前にいる1人の英語難民を救うこと」である。
2024年10月7日