リスニングより麻雀が好きです

 

     リスニングより麻雀が好きです

M・K  東京大学文科三類 (2007年 高松高校卒)

正午過ぎ。二日目の定期考査が終わる。他のクラスの悪友3人と一緒に、陸上部の部室へ直行する。明日もテストなので、部室を訪れる後輩はいない。誰に邪魔されることもなく、麻雀に興じることができる、そこは天国だった。

気付けば午後9時。外は当然真っ暗で、少し肌寒い。施錠された校門から、協力して自転車を運び出す。当直の教師に見つかると面倒だ。迅速に動く。無事に脱出した4人は、歓談しながら夜の闇へと消えていく。

これは、僕が高校3年のとき、秋も深まってきた頃の一幕である。受験一色の周囲にまぎれて、僕と一握りの親友達は、来る日も来る日も麻雀をしていた。部室で、空き教室で、時には屋上で。今振り返っても鮮明に思い出される。あれは楽しくて仕方がなかった。

ここまで読まれた方は、何故受験シーズンにこいつらは勉強をしていないのかと疑問に思うかもしれない。「そんなんだから浪人したんだろ」と鼻で笑っているのかもしれない。だが当時の僕にとっては、かけがえのない高校時代、それも最後の貴重な1年である。それを黙々と机に向かうために使うということの方が、勿体なく思えたのだ。毎日顔を合わせている友人達とも、来年になれば離れ離れになってしまう。残された時間は少ない。だったら今、少しでも長く向き合うべきなのは、問題集じゃなくてダチの方だろうが!! そんなことを考えていた。受験は来年でもできるが、高校は今しかないのである。

実際に僕は、高校生活の最後を、アレ以上はないと思える日々で飾れたし、素晴らしい思い出を作ることができた。正直、友達と笑い転げていた記憶しかない。最高の1年だった。

こうして、晴れて高校の補習科へと進級した僕であったが、相変わらず勉強よりも遊びの方が好きというか、今一つ受験勉強に対してやる気を見せない日々が続いた。受験の天王山と言われる夏休みにいたっては、前述の悪友のうちの1人が、何を思ったか我が家に10日ほど連泊して、一緒に徹夜で遊んだりする始末だった。

このような姿勢では当然壁にぶつかる。僕にとってのそれは英語、特に聞き取りであった。紆余曲折あって僕は東京大学を受験することになっていたのだが、模試を受けてみるとはっきり分かる、英語を時間内に解ききれないのだ。かつ、リスニングは何を言っているのか全く理解不能だ。本当に英語を喋っているのかどうかすら怪しい。

これは由々しい問題である。時間は30分近く足りない。リスニングは壊滅。さてどうする。まず考察してみる。原因は何か。努力の不足である。では対策は。一般的には、演習量を増やして読解速度を上げ、音読をしたり過去問を解くことでリスニング自体や東大の出題形式に慣れる、等か。しかし、英語塾の参考書に載っかる合格体験記にこんなことを書いていいのかどうかは知らないが、そうした正攻法に対して、僕はなんとなく興味が湧かなかった。

もう受験本番まで大して時間がない。確かに今から一生懸命に課題をこなしていけば、かなりマシになるかもしれない。しかし同じ事をして追いかけるのでは、現時点までに既に血の滲む努力を積んでいる他の受験生の有利は覆らない。自分の現状で東大なんて、どちらにせよ期待値の高くないギャンブルだ。だったら、奇襲の方が面白い。

僕は、去年買っておいたピカピカの赤本を開いた。配点を見る。英語は試験時間120分で120点満点である。そして120分のど真ん中に、30分間のリスニング試験が図々しく割り込んでくる。このリスニング問題は、5つある大問のうちの1つを構成しており、配点も丁度5分の1で24点である。

ん?ここで当然引っ掛かりを覚える。リスニングは時間の面から見ると4分の1も占めるくせに、配点的には5分の1しかない。効率悪くないか。更に特筆すべきは、その24点のほとんどが、4択問題だということである。

僕はリスニングがさっぱりできない。30分を丸々費やしたとしても、6、7点取るのが関の山だろう。一方「ほとんど4択問題」という点を考慮すれば、24点の4分の1近く、まぁ5点くらいは、ア、イ、ウ、エを適当に書き並べるだけで転がり込んでくるのだ。そんなもん10秒でできる。そうして浮いた30分近くを、これまで時間が足りずに解ききれなかった問題に充てれば。無策にリスニングに取り組む場合とは比較にならない点数をもぎ取れるのは、もう明らかだった。

自分としては、かなり気に入った作戦だった。やりたくないことはしなくていいのである。他に道はあるのだ。それに、全ての科目、それぞれ違った知識や能力を、一括で得点という数字に表してしまう、現行の受験体制の矛盾に警鐘を鳴らす…と言えば聞こえが良すぎるが、その脆弱性を突いたという点でも、一定の意味を持つ策なのかなと思った。

暫くしてから、三者面談があった。担任の英語教師も、僕のリスニング能力の欠落については知っていたので、当然話題に上る。会心の策を伝えた僕に投げかけられた言葉がこれだった。

「リスニングをせずに合格したなんて奴は聞いたことがない」

悪いことは言わないから馬鹿な真似は止めておけ、人生を棒に振るぞ、というわけだ。この台詞を聞いた時、僕は小さく笑った。馬鹿な真似、か。完全に肚は決まった。

「聞いたことがないなら、俺が最初の1人になってやる」

…こんな具合で、運良く、というよりも命からがら現在に至るわけだが、1つ注意しておきたいことがある。こうして書くと、まるで僕の英語力が、勝浦塾に通っていたにもかかわらず全く伸びなかったように読み取れてしまうかもしれない。それは全くの誤解である。勝浦塾にお世話になったからこそ、リスニング無視でもどうにか戦えるラインまでいけたのだ。たった26文字のアルファベットしか扱えない欧米人を馬鹿なんじゃないかと思いこみ、「そんなんだから似たような単語ばっかり作っちゃうんだよ。覚えるこっちの身にもなれよ、面倒くせぇ」と、英語に対してなんら好感を抱いていなかった自分。その自分に対して、英語の面白さ、文章構造の美しさを教えてくださったのは勝浦先生なのである。御世辞抜きに、先生の存在なしに合格はありえなかった。

英語学習の面だけでも大恩のある先生だが、その真の魅力は、塾生ならば誰もが知る、授業や解答の合間の雑談であろう。時には授業時間の半分近くを、英語と直接関係ない話に使ったりするが、これがあってこその勝浦塾である。座して単に英語の勉強をするよりも、何倍も貴重で濃密な講義を聞くことができる。そして、扱われる話題はいつも多岐に渡っていた。時事問題から、脳科学、派生してマインドマップ、NLP、時には哲学、処世術に至るまで。膨大な読書量と豊富な人生経験に裏打ちされた言葉は、学校という限られた社会の中でしか物事を見ていなかった僕たち塾生の頭を、いつもガツンと殴ってくれた。全ての事象に固定された価値なんてない。それを決めるのは、人間の勝手なのだ。

もともと僕自身、凝り固まった価値観に囚われないように生きたいと思っていた人間である。先生の豪放磊落な口調は、そんな僕の背中を力強く押してくれたし、時には新しい視点を与えてくれた。そのお蔭もあってか、今でも僕は、どこかの偉い人が決めた「正しい生き方マニュアル」をあまり気にせず、プラプラと生きている。そうした、精神的な支えとなった意味でも、先生にはいくら御礼を言っても足りない。本当にお世話になりました。

最後に後輩の皆さん、特に受験生の皆さん、勉強は大変だと思います。お疲れ様です。他の先輩方の合格体験記はどれも素晴らしいものばかりなので、ぜひ参考にしましょう。僕のこれは…良い子は真似しないでください。リスニングもちゃんとやった方がいいと思いますよ。麻雀もほどほどに。皆さんが、それぞれの望む未来を切り拓けるよう、陰ながら応援しています。

ちなみに、僕は今年留年しそうなので、両親にどう弁解しようか今から考えようと思います。お互い頑張りましょう。それでは!