体験記の余白に

 

 

     体験記の余白に

U・M 早稲田大学法学部 (2017年・高松高校卒)

受験勉強というものが、どうも好きになれなかった。むしろ嫌いだから、なるだけ避けつづけてきた。それなのに、京都大学法学部を二年も志望したのは、どこか矛盾していたのだろうか。いまは、早稲田大学法学部の学生読書室でこの「体験記」をつづっている。

もっとも、ぼくはこの「失敗」に、まったく悲しんでもいないし反省もしていない。東京に心底満足しているからだが、ではどうして京都を受験したのか。それは、なんとなく惹かれたからに尽きる。たまたま気に入ったから受験してみただけで、「東京大学」や「香川大学」もあり得たはずだ。

高校を卒業すると、誰でも自分の気に入った大学を受験することができる。だから、直感を信じればいい。その決断に、偏差値や判定という、よくわからない数値や記号をけっして介在させてはならない。「失敗」したといわれても、そもそも受験なんてくだらない制度にすぎないのだから、そんなものだと納得しておけばよいだけだ。

『反=日本語論』で蓮實重彦は、「制度」を「選択された不自然を自然だと信じることへの確信」のことだという。それにしたがうなら、受験とはまさに、「不自然を自然だと信じ」こませて走らせようとする「制度」にほかならない。それに参加せざるをえない我々は、せめてその不自然さを忘れないようにしたい。しかし、どうすればよいのか。

そこで、「知」的放蕩をはじめよう。いたずらに不安を煽り立ててくる受験の抽象性から遠く離れて、知の躍動に出会うこと。受験を迂回し、大学で学ぼうとする学問の世界に戯れること。受験は「通過点」にすぎないのだから、その先に目を向けることだ。

ためしに、優れた書物を、受験とは関係なく読み漁ってみると、そこで使われている方法論は、入試問題の解法に応用できるのではないか、と思いつくことがある。たとえば蓮實重彦の『「ボヴァリー夫人」論』をながめていた時、「これだ」と直感した。そこで体得した方法論は、入試現代文の点数につながった。それは当然のことで、大学受験とは本来、大学で直面する「知」に、生徒が対抗できるかどうかを判別する制度なのだから、学問の方法論や枠組みが入試にあてはまらないはずがない。いわゆる学習参考書というものは、知を切り分け、「テクニック」としてバラ売りしているだけだ。

もちろん、学習参考書のなかにも、「知」を矮小化することなく、入試に適したかたちで我々に提示している優れた書物はいくつか存在する。かつうらで用いられている『チュンプルズ』や『英語標準問題精講』は、その代表といえるし、そこから放蕩してゆけば、江川泰一郎の『英文法解説』や伊藤和夫の『英文解釈教室』、多田正行の『思考訓練の場としての英文解釈』、そして佐々木高政の『英文構成法』や『英文解釈考』に出会うことになる。

英語に関心をもちつづけることができたのは、これらの刺激的な書物のおかげだった。そしてこれらを理解し使いこなすことができたのは、かつうらで徹底的に「英文法」を身につけたからだ。

そしてインターネットで英文記事を読み、海外のラジオを聴き、映画や動画を観た。実践的に、肉体的に「知」に触れることができる時代に、わたしたちは生きている。

あとはあなたにどこまでの意志があるか、覚悟があるか。周囲と同じように勉強し、受験し、大学に進学する凡庸な人生。それは楽だし、そうしたいのなら、そうすればいい。でも、好きではないこと、つまらないことに精神を費やしつづけるくらいなら、「知」の誘惑にいざなわれてみるほうが、きっと後悔しないはずだ。さあ、あなたはどうする。

2018年5月2日