センター試験はどんな人間を生んでいるのか

センター試験の廃止を(3) ─

●It’s too easy to answer. 

以下はセンター試験の問題(2012年)。「最も適当なものを①~④のうちから選べ」

You should not let your personal emotions ( 15 ) in the way of making that important decision.

①stand    ②standing   ③to be stood    ④to stand

ここで問われているのは、「let+目的語+原型動詞」という「letの動詞型」に過ぎない。問題文は、(  )の後も文は続くが、簡略化すれば、次の問いと同じ。

You should not let him (  ) there. (彼をそこに立たせてはならない)

①stand    ②standing   ③to be stood ④to stand

まとも受験生なら間違えようのない問題で、ひょっとしたら中学生でも正解するかもしれない。

●I don’t know what it means.

しかし、センター試験を受けた塾生に、問題文を訳させると訳せない。全員が例外なく正答の①standを選んでいながら、英文の意味はわからないという。

問題文は「その重要な決定を下す際に私情をはさんではいけない」という意味だが、受験生は、そんな英文の内容などお構いなしに正答してしまう。受験生の心理はこんなところにある。

<後半には長文が待ち構えている。文法問題はできるだけ短時間ですませよう。きちんと読めなくても答えが合いさえすればいい。余計なセンテンスにのんびり付き合っている暇などない>

では、出題者はなぜこんなヘンな問題を出したのか?

出題者が「let+目的語+原型動詞」をわざわざ大学受験生に問うとは考えられない。出題の意図は、「stand in the way 」が理解できるかどうかの方にあったはず。問題の力点は、前半の「let」ではなく、後半の「stand in the way」にある。

しかし、出題者の意図とはうらはらに、受験生は前半を読んだだけで正答してしまう。出題者は知恵をしぼって問題を作成したつもりでも、後半の部分などだれも読まない。

ここでstand in the wayについて触れておこう。

問題( 15 )の答えがstandだからといって、辞書でstandを調べても埒(ラチ)は明かない。ここで引くべきは単語はstandではなくwayの方。能力がないと辞書は引けない。辞書にはこんな用例が載っている。

A fallen tree was in the way of the bus. (倒れた木がバスの進行の邪魔をしていた)

wasをstandに代えて訳せば、「倒れた木がバスの行く手をふさぐ」の意味になる。したがって、Your personal emotions stand in the way of making that important decision. は「重要な決定を下す際に私情が立ちはだかる」の意味。

●The end justifies the means.

こんな英文の意味などわからなくても、どうということはない。センター試験は記号が合いさえすればいい。英語力などなくても、どんな考え方をしようと、どんな手段をとろうと得点できればいい。

同じことが地元の高校の校内模試についても言える。

英文の下線部訳の問題は訳を記述するのに1題につき10分はかかる。配点は3点。一方、「発音・アクセント問題」は、知っているか知らないかの話。1秒で解答できる。配点は1点で、3問正解すれば3点。10分かけて3点得点するのと、3秒で3点得点するのとどちらが効率がいいかは明らか。

●Their top priority is to get the highest score.

ここで配点の不均衡を言いたいのではない。こうした試験が点数至上主義を生んでいる点を指摘したい。

受験生は単語さえできれば得点できると思い込む。「英語学習」=「単語の暗記」という薄っぺらな考え方を抱く。音読は語学学習のベースだが、音読の上手いヘタなどは数値化されないから見向きもしない。受験に関係のない分野や学科は学ばない。受験に直接に関係ないとわかれば教師の話など聞かない。

「どんな本を読み何に感動したか」「どんな人間関係につまずきどんな成長をしたか」「部活でどんな汗や涙を流したか」「何にチャレンジし何に情熱を傾けたか」「仲間とどんなことで大笑いしたか」

そんなことより受験テクニックを磨いた方がいい。点数に現れる結果こそ絶対であり、大学こそすべてだと考えるようになる。スポーツ紙にこんな見出しの記事が載っていた。

「俺は東大生だぞ」「おまえらとは格が違う」 成人式迎える東大生、駅員に暴行して逮捕 (スポニチ・2012年1月10日)

入試の現場では、こんなことも進行しているという。京都大学で30年近く入試答案を採点してきた教授がこう指摘する。

「すべての問題に解答しているが、どの問題も途中で解答が放棄されている。数学の採点では、考え方が途中まで合っていれば部分点を与える。それを見越して、部分点だけを集めて5割の点数をとろうという作戦。これだと、問題を完全に理解する必要はない。パターンを覚えて、似た問題の解答をまねて書いていけばよい。受験技術としては完璧だろう。しかし、大学に合格してもそれ以上の勉強を続けていくことは難しい」(以上要略)―『学力があぶない』岩波新書より

● A day trader

先に、「センター試験は、どんな考え方をしようと、どんな手段をとろうと得点できればいい」と書いた。これをそっくりそのまま社会人に当てはめると、次のように言い換えることができる。「仕事への興味や情熱などなくても、どんな考え方をしようが、どんな手段をとろうが、稼げたらいい」

これに関して痛快な一文が目にとまった。

― 先日テレビを観ていて、目の前が真っ暗になる思いをした。その番組は、モニターを見ながらデイトレードをして、1年で2,000万円を稼ぎ出したという20代の若者を紹介していた。私はその若者の態度に違和感を覚えた。自分が稼ぎ出した金額を誇らしげに示し、稼げない男は無価値であるかのような倣慢な態度をとったからである。

デイトレードで2,000万円稼いだことが、まさか偉いとでも思っているのか。ただモニターの画面を見ながら株や為替の売買を繰り返す行為は、利益を上げたとて、何も生み出してはいない。社会に何の貢献もせず、博打のような手段で金を稼いで、世間を見下すとはいったいなにごとか。

そのような手段で稼ぎ出した金銭は、「あぶく銭」と呼ばれる。ましてそれを本業としていることなど、恥ずかしくて堂々と世間にいえたことではない。

たとえ収入が少なくとも、毎日懸命に働いている人の生き方は美しい。人々の生活を幸せにすることにつながる価値を創造するものが仕事なのであって、デイトレードは「仕事」などと呼ベるものではない。― 『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』(竹田恒泰著)

センター試験はめぐり巡って、品性のない拝金主義を生み、安易なマネーゲームに走る若者を生んでいる可能性がある。

●Nothing but useless

今年のセンター試験は、新しい方法を導入したことでトラブルが続出した。過去最大の混乱が起きたという。高校の現場からは、「会場の試験官はしっかりしろ」とか「受験生の人生がかかっているのに」といった声は聞こえてきても、廃止を訴える声は聞はない。

「共通一次試験」が始まったのは1979年。「センター試験」へと名称を変えたのが1990年。発足から30数年が経つ。「共通一次」が始まったころ18歳だった学生は、教師になっていれば、現在50代のベテラン教師。それよりも後の教師はすべてマークシート世代ということになる。

人間は保守的な生き物だから、自分が受けてきた教育こそが最善と考えても不思議はない。「マークシート」が導入される前の「記述」の時代を知らなければ比較のしようがない。そこからは「センター試験」を疑う視点などは生まれてこない。マークシートで育った世代が、次の世代を再生産している。

毎年1月になれば、マスコミは「センター試験」を冬の風物詩のように脳天気に報道するが、大学入試で全国規模の統一試験がなぜ必要なのか。個性化が叫ばれるなか、個々の大学が独自の試験を行えば十分である。「センター試験」は無用の長物と揶揄されても仕方がない。

(2012年02月22日)2020年2月1日改稿