『英標』の要約で「読む力」がつく

要約のすすめ(その1)

●「理解力」は「要約力」である

文章が書けない学生が増えている。国公立大の2次試験は、「日本語で説明せよ」「下線部を訳せ」「内容を要約せよ」といった記述問題が中心である。大学入試といえばセンター試験が主流になり、国公立大を受験しないのなら、文章が書けなくても困ることはない。センター試験はマークシート方式だから、与えられた選択肢から記号を選べばいい。文章など書けなくても、スピードと直感力があれば、センター試験は得点できる。

学習の中心がセンター試験にシフトすると、実際に手を使って紙に書く機会は減るばかりである。書く機会がないと、書く能力は育たない。書く能力は理解力と結びついているから、書く能力が劣ると、理解力も劣る。

こんな学生がいる。授業をきちんと聴いている。受講態度にも問題はない。ノートも几帳面に取っている。だが理解度が低い。なぜだろう。彼女のノートを見ると、的はずれな記述があったり、板書とは違うことが書かれていたりする。理解すべきポイントがズレているのだ。この理解力は要約力と関係している。

1時間の授業を聴いたら、だれでも要約して頭に入れている。電機製品の使い方を1時間聞いてもやはり要約して頭に入れている。この要約の仕方がヘタだと、授業内容や電機製品の使い方を、人に伝えようにも伝えられない。あの人の話は、何の話なのか要領を得ないということになる。1時間の話は、1時間かけてインプットするわけでもないし、1時間かけてリプレイするわけでもない。省略し、要約して頭に入れているのである。

●「表現力」は「要約文」で磨く

『蛍雪時代』(1994年)のなかに、『長文読解は要約力がキメ手』と題する記事がある。その論旨はこうである。

『小論文の入試では、自分の考えを論理的に文章化できるかどうかが問われている。長文の内容が把握できなくては、その内容に対する意見など述べることはできない。読解力をつけるには、要約の練習がいい。要約することを目的に読み、限られた字数で筆者の主張をまとめていく。こうした「読み」と「要約」をくり返すことで「読みの力」がつく』

記事では、朝日新聞の『天声人語』の要約を勧めている。『天声人語』はおおむね800字で書かれている。これを200字、100字、50字、20字と要約していくことで、「読解力」「要約力」「表現力」を身につけよと提唱している。

「自由」について書け、「平和」について書けといわれてもおいそれとは書けない。だれしも真っ白な空白の紙を前にして、書きたくても書けないのだ。日記なら書けるかというと、そうでもない。日記は他人に見せるものではないので、書くのに緊張感がない。緊張感がないと、書いても充実感が伴わない。それに毎日センセーショナルなことが起こるわけではないので、日記はすぐにネタ切れになる。

しかし「要約文」なら、元になる文章があるわけだから、とにかく書き始めることはできる。「要約文」だから、無から有を生み出すわけではない。目の前にある元の文章を削っていけばいいのだ。何もないところから書き始めるプレッシャーに比べれば、「書く」という行為の負担は軽い。「要約」は他人が書いた文章を加工するのだから、ただ書けといわれて書くよりもずっと書きやすい。

●『英標』の要約

『英標』には、「伝記」「自伝」「小説」「哲学」「自己啓発」「会話文」「評論文」とさまざまな文章が取り上げられている。全部で220題載っているから、要約の材料にはこと欠かない。その中でいちばんの量を占めるのは「評論文」である。「評論文」だから、語彙は生硬で難しいものが多い。

自分では普段使わない言葉や言い回しが多いから、ボキャブラリーや表現力が身につく。「卓越した」「報酬として」「空虚な」はそのまま使うよりも、それぞれ「すぐれた」「見返りとして」「ぼんやりとした」と、日常使っている普通の言葉に置きかえた方が読みやすくなる。しかし言葉を置きかえると全体の流れやリズムが変わるから、表現形態も変えなければならなくなる。このことが書くトレーニングになる。

試験などで、「要約せよ」とか「大意を述べよ」といわれると身構えてしまうが、友だちに話すようなつもりで書くと、リラックスできて書きやすくなる。「手短に言えば」「かいつまんで言うと」「要するに言っていることは」と考えれば、肩の力が抜けて書きやすくなる。

●英文と訳文の併記

かつうら英語塾の『英標』のテキストには、英文と訳文が併せて載せてある。『英標』の英文は難解な構造のものが多く、訳文なしでは内容をつかみきれない。英文が難しいのだから、訳文はチラッと見るのではなくじっくり見て欲しい。しかし学生は訳文があっても見ようとしないし、読もうとしない。

訳文をよく読めば、こういう訳文だから、こういう構造の英文だろうと逆算して推理することができる。訳文と英文を照らし合わせることで、どの訳文とどの英文とが対応しているのかが見えてくる。

一例を挙げておこう。(『英標』練習問題【22】改訂)

 X seemed to have been recently brought in, for an observer, had there been one,would have seen Y.

Xは最近になってもち込まれたらしかった。というのは、もしだれかが居合わせていたならY が目についていたはずだからである。

たとえばfor an observerで、forを前置詞と解釈して、「観察者にとって」と訳したのでは、would have seenの主語がなくなり、つじつまが合わなくなる。訳文の「というのは~だからである」から、forは前置詞ではなく接続詞であるとわかる。

また、had there been oneもつまずきやすい箇所だ。しかし訳文をよく読めば、「もしだれかが居合わせていたなら」に対応しているのが見えてくる。had there been oneは、if there had been oneで、if省略による倒置であることがわかる。

●内容がわかっていれば英文の構造分析に集中できる

『英標』の要約文を実際に書いてみると、こんなことに気づくはずだ。ただ漫然と訳文を読むだけでは内容は頭に入らない。要約文を書くには、訳文を何度も読まなければならない。ぼーっと読んでいては要約文は書けない。大体こんな意味だろうと頭のなかで想像するのと、実際に手で紙に要約文を書くのとでは意味が違う。

実際に手を使って紙に書くには、集中力と緊張感を持って訳文をくり返し読まなければならない。紙に書いたものは残るからごまかしが利かない。何度も読んだ結果、訳文の内容を熟知することになる。そうすると英文を解釈するときに、何が書いてあるのかがわかって英文を読むことになるから、英文構造の分析だけに集中できる。

普通の読み方は、英文の構造を解明しながら、内容を理解していくというプロセスだが、これは骨が折れる。「構造分析」と「内容把握」という二つの作業を同時に行うからだ。そこでもし英文の内容が事前に十分にわかっていれば、英文の構造分析だけに専念すればいいことになる。そうすると英文を読むのにゆとりがうまれる。『英標』では一筋縄では読めない文が並んでいるから、こうしたゆとりがなければ精読はできない。

●あとから要約するとすっきりする

『英標』で一つひとつの文にこだわって精読していると、部分にとらわれて全体を見失ってしまうことがある。一本いっぽんの木ばかりを見ていて、森を見失うのだ。一文を丹念に読み解くことに没頭するあまり、ふと何の話で、どんな内容の文章かを忘れてしまうことがある。

こんなとき精読したあとで要約文を書くといい。苦労して読んできたけれど、結局いっているのはこれだけのことか、英文そのものは難しいのに中身はこんなにスカスカだったのかと、拍子抜けすることもある。また、崇高な哲学的な内容の場合、要約しきれないこともあるし、日本語で読んでもわからないことがある。むしろ英文そのもので理解した方がわかりやすいと気づくこともある。

「要約文」は、さきに書いてもあとから書いても、いずれにしろ大きなメリットがある。紙とエンピツで実際に書いてみることで実感できるだろう。

 2013年03月29日